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毎年毎年、一年の終わりには始まった時には想像していないことになっているように感じる。無論、当初から特定の達成目標がある訳ではないのだけれど、それでも薄く希望していたものと方向は違えど、何かしらの向上や発展があるように思う。(ボクは楽天的すぎるのかもしれない。)いずれにしても、過去の段階で想像出来る将来というのは、現実になるものに比較して視野の狭いものなのはしょうがない。個人が何かを得よう、向上させていこうという意志がある限りは、将来の選択肢は更新され、更新され、また更新されていく。結局止まるも進むも個人の意志である。
未来を予想するのは難しい。それは個人の場合であっても世界を考えるにしても同じことである。(というより、あくまで「世界」というのは個人の代替にすぎないというのがボクの基本的な考え方だ)なので、いつでも誰かがやる「このままでは日本は(世界は)駄目になってしまうかもしれない」とか「こうなるだろう」などという予想は、きっと外れるに違いない。案外そのようにはならない。1941年の日本人に「日本とアメリカは仲良くなって、我々は向こうの言うことを何でも聞く国になりますよ。」などと言っても誰も信じなかったに違いないように。 ならばそういうものは小耳に挟むくらいにして真剣に取り合わず、あくまで自分にとって「正しい」と思えることに邁進するが良いであろう。未来を夢想するのは良い。しかしそれは限りなく可塑性があり、変更・微調整をくりかえしていくものだと理解したい。「その時点」での自らの小さな視野のものに固定してはいけない。発言は撤回され、また新しい目標が打ち立てられる。それがより良いものである限りはそれで良いのだ。誰にとっても断言することは、あくまでその時の気合と努力する方向性を示すに過ぎず、それに邁進することで違うもっと良い結論に至るのであれば、過去の断言にこだわる必要もないだろう。すべては「今ここ」の話なのである。そうして、その繰り返しは個人を思いもよらない「将来」へと誘ってくれる。自分という人間が外見も中身も魂も履歴書のように「その人間」を物語るであろう。美しくありたいものである。
by dn_nd
| 2011-01-03 10:40
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