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ズボンズのリーダー,ドン・マツオの思考あれこれ。
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ここで生まれ、ここで死ぬ。
 役者の難しいところは、台本があり、演じる人物の将来や運命を分かった上で、それを分からないものとして人物の「今ここ」を演じなければならないところだろう。すでに知っていることを完全に削除することは不可能だけれど、未来を知った「人間」などはいないし、存在してはならないものだ。考えれば考えるほど難しい。だからよくできた役者は「自分」を「人間」に持ち込むことなく役を演じることが出来るのであろう。一方、不出来な役者は「解釈」しようとするので、あくまで自分という「本人」が役に出てしまう。「泣く」という行動一つとっても、様々なシチュエーションにおける、様々な感情の表出がある。それは当然、その人間の辿ってきた全軌跡を負った上での感情になる筈であろう。定型化した「泣き」の演技というのは、単に最大公約数的な記号を見せつけられているに過ぎない。「”泣き”って普通こういうもんでしょう?みなさん分かるでしょう、ね?」と問いかけられているようなものである。そういうものが世界に蔓延している。感情もまたファーストフード的な扱いをされているのだ。

 将来や運命を知らないように、というのは、果たして音楽を演奏をするときも同じだとボクは考えている。いつも言うのは、「曲を演奏してはいけない。」ということである。曲をすでにあるもの〜完成しているのものとして演奏してはならないという意である。これから何が起こるのか分からないが、とにかく大団円へ向かってより良いエンディングを迎えることが出来るように「今ここ」で最大限努力する、ということである。確かに楽曲には道がある。Aメロがあり、Bメロへ移行してコーラス、ソロ、キメのブレイク、またコーラス、と行くのである。しかしそれはあくまでもそこに行くまでの軌跡を踏まえたものでなければならないし、その移行が当然の結果としての選択であるようになっていなければならない。目の前は常に白紙、という状態で演奏せよ。「それ/運命」が向こうから来るのを受け止めよ、ということである。「あー、次はキメでしょ。」とやるのではなく、「あー!もうキメなきゃ!!」という状態でキメに入らなければならないのだ。その為には、そこで流れている音楽の大きな流れに100%身を委ねなければならない。「音楽」だけがその流れを知っている。「音楽」は自分が演奏して作り出しているものであるにもかかわらず、始まった瞬間から主導権は自分達にはないのである。始まった瞬間から「音楽」は産声を上げ、確固と存在する。そしてミュージシャンは侍者のようにそれに従うしかないのである。それはまったく、人間が生きるという行為と同じことである。

 この思索をエクスパンドして考えてみると、ボクらは何度もの生をステージ上で繰り返し体験していると言ってもいいのかも知れない。ステージというのは、「ここで生まれ、ここで死ぬ。」という生の置き換えとも言えなくもない。(そこでは時間は捩じ曲げられ、時に縮まり、時に延びる。)幾多もの生を得ても、特に賢くならないばかりか、謎が深まっていくばかりではあるが、その行為を繰り返すことでしか答えが見つからないのもまた自明である。そうしてまたステージに上る。

 明日はまたアメリカへ出発だ。上述の通り、何が掴める訳ではない。毎晩「そこで生まれ、そこで死ぬ」を繰り返すばかりである。しかし「分かる」というのはファーストフード的紋切り型の成果のように明らかなものではない。それは無意識というドロドロとした混沌の中に入り込み、混沌の一部となる。混沌はまた一段複雑さを増した混沌となる。黒がどのような黒になっても、すぐには見分けはつかないかも知れないが、そこには段階や表情や、または温度差みたいなものがあるのだ。そしてそれは経験の等価として生きてくるものかどうかは分からない。それでも、行くのである。混沌をより混沌とする為に、である。
by dn_nd | 2011-02-28 14:18
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