ズボンズがデビューした17年前はそう思わなかったけれど、今になって本屋さんの音楽誌コーナーを覗いて見ると、「どうもボクらが存在出来るようなポイント(雑誌)が見つからないなぁ」と思う。それは、ボクらがより意固地に我が道を突き進んでしまったせいもあるだろうが、紙媒体の業界の方がより大きな利益や宣伝効果(又はそこから入ってくる収益)を元手にしなくては成り立たなくなってしまったせいだろうと思う。そうなることで、より大きな利益が望めるミュージシャンを優先的に起用することになり、その他モロモロ(ズボンズもこの辺に含まれる)は優先的にカットされていくことになる。会社で言えばリストラのようなものか。しかし「釣りバカ」ハマちゃんのいない鈴木建設がどれだけつまらないものかと考えると、昨今の雑誌の面白くなさも、同じようなことかと思う。
先日もex-クアトロレーベル・ズボンズ担当、現クリエイティブマンの盟友H氏と話したのだけれど、その頃はプロモーター稼業も巨大フェスに頼ることなく細々と成り立っていて、規模は大きくないがもっと多彩な海外ミュージシャンを紹介出来てたように思う。(まぁ、大きくないとは言っても、渋谷のクアトロなんかは相当でかいハコのようにも思っていたけれど。)そして、そのような多彩性を保っていたころの方が、現在よりも間違いなく活気があり、エネルギーがあり、未来を「持っていた」ようにも思う。結局利便性や益の大きさを優先する余り、それ以外の「モロモロ」達をバッサリ切り捨ててしまったところに「旨味」もなくなってしまったのだろう。おそらく、「利益を追求しつつ、良いものは利益度外視で残せるだけ残し、お互いの共存共栄を図る」というクールで射程距離の長い発想が必要だったのだろうけれど、残念ながら(特に)我々日本人は、どうにも射程距離の短い、すぐにリターンのある部分しか見えないところがある。そこで出てくる決まり文句は「だってお金がないと、結局何も出来ないでしょう?」であるが、これは「原発を動かさないと経済が回っていかなくなる」というのと同じ物言いである。実際に自分のことを顧みてみても、とてもじゃないが「お金がないと何も出来ない」という論理では「さて、ズボンズはどうしてここまでやって来たのでしょう?」と問い返したくもなってしまう。やっていけるかいけないかは、あくまでやる人の問題であって、「お金ない=出来ない」という図式を、さも一般論のように得意に持ち出されても、ボクなんかは全然そうでないのである。また、ここも「どうもボクの考えは一般論を振りかざす人とは相容れない部分があるなぁ」との思いである。
しかし、考えてみると「どうも一般論の中で生きるのは、違うなぁ」と感じている人も少なからずいるではないか。現在の「一般的」な物のことごとくに、微妙だが大きな違いを感じていて、それでも自分の納得出来るテリトリーが存在しないので、しょうがなくアウトローになってしまっている「モロモロの人たち」、もしかしたらここに大きな鉱脈/マーケットがあるのではないか、とも思う。「モロモロの人たち」は年齢からくる一般常識に対応出来ていない(留年しているのだ)為に、どこか疎外され、どこか偽って周囲に自分を合わせて生きている人たちである。現状は彼らの受け皿がない為に、はっきりとした物言いをすることが出来ない。しかし、そのような人たちこそ開花すべきであり、発言すべきであり、認められるべきである(と、ニーチェは言っているように思う)。おそらく今後は「モロモロの人たち」の趣味嗜好思想がよく反映されたテリトリーが開発されていくべきである。それは現状にはないオルタナティブなテリトリーになることであろう。そうして、そのような別の道が出来て、現状ある道とも交われば良いのである。ひどく大掛かりな工事になるとは思うが、やる価値もあるし、やるしか生き延びることは出来ないであろう。ふむ。
やるのだよ、「モロモロ」くんたちよ。