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ズボンズのリーダー,ドン・マツオの思考あれこれ。
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自分に似合う服を着て。
 ボクが思う着て自分に似合う服というものは、すでに着ているかどうか分からない、というか、人物を超える以上に服の印象が残るものであってはならないものだ。その選定は、実に難しい。服それ単体で見ると、そこに「面白い」とか「可愛い」とか「かっこいい」とか「きれい」とか物的価値の側面でコレクションしたい・着てみたいものではあったとしても、それを実際身に着けてみて、自分が「ちゃんと」自分に見えるかどうかという点に於いては、もっと総合的・客観的な判断が必要になってくる。その判断にその時の自分の人間のすべてが出てしまうと言っても過言ではない・・・・とはちょっと大袈裟だとは思うのだけど、再結成したバンドの演奏をYoutubeなんかで見てみると、どうも「若い頃は似合っていた服を(今更)引っ張り出して着ている」ような感じがするのです。

 演奏家として、曲は、それ自体がレコードという形で残されたものが完成型ではなく、あくまで生き物と同じように時代や演奏家自身の成長・進化に伴う形で変化していくものだという実感がある。「いま、ここ」の演奏をする、ということは、毎日の服を選ぶのと同様に、変化があり、気分によってかなり違うものになって然るべきことだ。もちろん、年齢や時代によっても随分違うものになろう。あくまで「その時の自分」にフィットしているかどうか、である。それは、似合っていない服を着ている人を見ることと同じく、傍から見てみるとすぐ分かることだ。「服」に合わせて自分の容姿や内面を変えることに無理があるように、「曲」に今の自分を合わせることは出来ない。いくらレコードに残されたものが良かったように思えたとしても、他の誰もがそれを賞賛していたとしても、「今の自分」の容姿・サイズ・内面に添ったものでない演奏は、似合っていない。それは生きていないと同義でもある。

 そういう意味で、一般に思われている以上に演奏すると云う行為はデリケートなもので、その曲の持っている生命感・躍動感は、ただそれを演奏すれば出てくるようなものではなく、「生命を注ぎ込む」ように演奏しなければならない。それがたとえ自分が作った曲であっても、それがタンスにしまわれて何年もたってしまっていると、再び自分の身体の一部のように感じれるようになるには時間がかかる。そうして、それが出来るようになった頃には、きっと、その曲は元のレコードとはかなり違うものになっていることだろう。それは、自分自身の変化の一つの現れである。

 人間は、若くあることが大事なことではない。その時その時で「自分の合点がいく人間」であることが大事である。年齢を重ねることで若さやエネルギーを「失っていく」と感じる人間もあるかもしれないが、実際は、内面的に絶え間ない成長を続けていて、沢山の経験や感覚の深さを「得ていっている」のだと、ボクは思う。成長していうのならば、エネルギーを失うことはない。(成長にはどんな場合であれエネルギーが必要である)ならば尚更、「いま、ここ」の自分がやる演奏は「いま、ここの自分」のすべてを注ぎ込んだものでなければならない。そうすることで、音楽に生命が宿り、肉体を持つ。それは、自分自身が生命を獲得することなのである。

 人間が「生きる」というのは、実に興味深い不思議な経験だ。全然飽きることがない。これが、自分が努力して獲得したものではなくて、あらかじめ「与えられて」いるなんて、とっても得した気分でありますなぁ。
by dn_nd | 2012-08-05 10:47
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