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Magic Mountain製作につき、思うこと。
 ソロアルバムが完成した。

 年明けから色々とあってバタバタしてしまい、作曲を始めたのは1月の中旬頃で、録音・ミックス・マスタリング終了が2月頭。延べ3週間の作業でフルアルバムの完成、というのはボクのペースとしてもかなり早い方になると思う。内容としては、聴いていただくのが一番なのだが、いつも通りの出来である。悪くないと思う。

 そもそもこのアルバムは、作られる予定ではなかった。最初は、気楽にソロツアーだけを計画していたのである。その内に、いくつかの会場から「今回は抑えめの音でやることは出来ないか」というリクエストがあり(過去に音が大きすぎて苦情が来たらしい)、ふむそうか確かに今までは苦情が来ようと天井が抜けようと最終的には自分の音(つまり、でかく)でやって来たのだが、いい加減もう大人な年齢でもあるし、小さくてお客さんがカクテルでも飲みながら楽しめるような音楽にチャレンジしても良いかもしれない、そのような可能性を探ってみよう、とその時に考えたのが制作の始まりであった。もちろんボクはアコースティックギターの弾き語りをやれる柄ではないし、今気に入って聴いている中南米の音楽やカントリーミュージックへのアプローチという自分なりの実験もやってみたい。さて、結果どのようなサウンドのアルバムになったのか?うむ、あまりカクテル向きではないかもしれない。しかし、小さい音量でプレイ出来ないこともないかも、しれない。うむむ。

 まだ出来上がった直後であるし、実際に曲群をプレイしていないので、ボクがこのアルバムで何を表現しようとしたのか、どのような達成があるのか、はまだ今のところ分からない。この後時間をかけて、聴いた人達や、演奏を見た人達、プレイヤーや友人達が「あれはこうじゃないか?」とか教えてくれて「そうかもしれない、そうに違いない」と気付くことになる。(無責任で、すんません)ただ我ながら、良くまぁ次から次へとポンポンと曲を作っていくものだと思っただけである。曲はいつでもいくらでも出てくる。自慢ではない。これはミュージシャンとしてのタイプの違いであって、ボクにとっては、その作った曲群を引き締まったボクサーのように絞り込んだり、アレンジを突き詰めてより完成度の高い「作品」にすることが出来ない、というのが最大の悩みなのである。(中には10年も一つの作品に取り組んでいる人だっているのだ)どうもボクの好奇心は、制作物がゼロからイチになる瞬間に最大の集中力と執着を見せ、一度出来たモノを再検証し詰め直し、アラを見つけ正し、より完璧な「作品」を目指すという段階になると途端にどこかへと旅だってしまうようだ。なので永遠に「磨き上げた傑作」のようなものは作り得ないかもしれない(きっと、作れない)という諦観を持つのだが、どうであれこの性格的向き不向きを抱えた中で最善を尽くすしかないのだ。いずれにしても、もうそれほどふんだんに音楽を作れる時間が残っているかどうか分からない訳だし。

 それにしても、音楽を作り発表するというシステムは、大きく変わってしまったとつくづく思う。おそらく誰にとっても生活の中での音楽というものの占める重要性や影響力が大きく変わってしまっていることだろう。出す前からこういうことを書くのも何なのだけれど、おそらくこのアルバムは(も)リアルタイムで深く聴かれ解釈され、影響を与えることは少ないであろうと思う。ボクのような立場(と性格)のミュージシャンであるから仕様のないことである。作品の良し悪しの話ではない。沢山の人が無数の興味や情報を持つ。その中には自分から能動的に得るものもあるが、大半は黙っていてもどこかから送られてきているものである。それら情報(と云う名のプロモーション)の大波の中にあって、(リアルであれヴァーチャルであれ)多くの他者と共有出来ないものに執着し続けることが出来るほどの時間的・精神的余裕は、もはや無くなってしまった。本当はそれら執着出来るものこそが自分であるし、しっかりと味わい、少ない仲間であってもそれを深く共有することで「自分の」人生が豊かに形成されていくものだ、というのは分かっていても、大波の強烈な渦の中ではただ生き延びる以上のことは出来ないものである。そのような「現状」の前でボク(ら)は傷付きもするし、納得はしないが、現状そのものは理解は出来る。そのような「諦め」がジワジワとボク(ら)の生命力を奪っていくのを感じている。率直に言ってボクもこれからどのように生きて行けば良いのかが全然分からないという具合に途方に暮れている。ここまで希望が持てない時期は今までになかったし、こっちに向かっていれば大丈夫だという明確なディレクションを持っていないのも初めてである。それは年齢のせいかもしれない。ともあれ、ボクもこの大波の中をサヴァイヴしていかなければならない。

 ある時に突然、一人の人物や作品や現象に夢中になることがある。自分にとって「今」というタイミングで初めて理解出来、共感することになったものだ。それは偶然的にもたらされ、興味の赴くままにグイグイ突き進むことで知的/精神的快感を呼び、寝食を忘れるほどにコミットすることになる。いつか気持ちが離れる時が来る。しかしその「突き進み」によって獲得した感激や感情の動きや共感は、何かを残してくれる。場合によってそれは人生の彩りを一段深くすることになるだろう。その時に興味を持った対象に沢山の作品が残されていると、それだけその人物を知ることが出来る。自分の生き方や考え方と照らし合わせてみて、人間の多様さや趣き深さを思い知る。そして、「人間」とは、自分自身のことである。自分にもこれだけ懐があるのだろうか、趣き深い存在なのであろうかと立ち止まる。そう自分が考え続けることで自身の人生の薄い層が積み重なり、より複雑で美しい模様を作り出し、愛おしくなっていくのではないかと思う。ボクはそういう体験をして来て、今もそうだ。叶うならば、自分も作品によって誰かにそのような体験を与えることが出来れば良いのだが、と希求するのである。なにしろ、これだけ嘘いつわりなく喜びを感じ、尚かつ自分の人間能力を発揮出来ていると思えることもない。それが「何か」であって欲しいと願うのは、かなりシンプルな魂の欲求なのだと感じている。傲慢で、畏れ多いことなのかもしれない。だからすぐに誰かに認められようとそうでなかろうと、未来にいる理解者を信じるしかない。その為に、良いと思える作品を作っていきたいと思うのである。少なくとも、これからも自分が右往左往している姿を刻み込んで、残していければと思う。出来るならば。
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by dn_nd | 2014-02-17 22:47
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