ズボンズのリーダー,ドン・マツオの思考あれこれ。
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自分実験中。
 朝起きて、身体を確認する。つま先から頭のてっぺんまで血が流れているか、各部署に不具合はないか。不具合がある場合には、その理由を考え、治すように血の流れを整える。ストレッチ。寝たまま出来るものから叙々に起き上がるものへと。そのまま腹筋、腕立てをガシガシやってキッチンへ行き水を飲む。そしてすぐにブログを書き始める、というのがボクの一日の始まりである。

 そもそも朝のぼんやりした時間を、無理やりトップギアでスタートさせよう、それを続けてみたらどうなるのだろうという、自分実験のつもりで始めた事なのである。朝イチで走るという手もあるのだけれど、血圧が相当低いボクにとってはリスキーな気がしたので、意識の中枢の脳に負荷をかけてみているのである。脳は筋肉と違って、目に見える変化が分からない。しかし、自分という人間が変化している過程にある感覚がある。1ヶ月前の自分とて、遠い存在のような気がする。そうは言っても、ボクは割合昔からそういう人間なので、このところ急に変わったということではないかもしれないし、今のところ実験の効果は分からないと言ったところだ。

 いずれにしても、「いざ演奏!」という事になれば、躊躇している時間などない。2時間も3時間もかけてだらだらと盛り上がっていくというのは、ボクのスタイルではない。スティックを振り下ろした瞬間、ギターの弦をピッキングした瞬間からトップギアに入っており、中弛みすることなく最後まで情報盛りだくさんで演奏し切る、というのが理想である。それが1時間であれば1時間、10分であれば10分で同じヴォリューム感の演奏をしたいと思う。

 探りながら演奏する、というのが嫌なのである。勿論、実際は探っている訳なのだけれど、脳で認識・確認する前に、若しくはほぼ同時に身体に任せて反応させるのだ。後から振り返ってみると、その瞬間に物凄い量の情報交換が脳内で行われているのが分かる。まるでコンピューターが難しい演算をする時のように、実際にカチカチ音をたてているような気さえする。その立ち上がりの早さに、今の実験は役に立っているかもしれない。

 考えてみれば、ボクは自分実験が好きで、しょちゅう何かしら実験中なのである。それで何か良い結果が出ているかどうかは分からないが、結局のところ、勝負の世界と違って人間は生き続けていて終わりはないのだから、あくまでその時点での「結果」でしかない。その時点での進歩なのであって、常にその先により良い自分を創っていくことになるのである。それで良いのだ。現時点の自分が以前の自分より好ましく思えるのは幸いなことだ。

 今朝もここで実験終了。
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by dn_nd | 2010-09-30 06:30

若さの輝き。
 「若さ」とは最大のエネルギーで、人間にとって一番大事なものであるのは間違いない。しかし今や「若さ」がイコール年齢と言える時代ではなくなってきているような気がする。止め処ないエネルギーを抱えながらも、ワーワーと騒ぐだけで、何ら革新的な行動も出来ず、世界の役に立たない若者は、もはや脅威でも何でもない。その黙っていても溢れてくるエネルギーを有効に使っている若者がどれだけいるのだろう。

 知識や経験も人間にとって一番大事なもののひとつである。またそれは、延べの時間を経ることでしか増やす事が出来ないものだ。「毎日が日曜日」となって、仕事をリタイアし、毎日を犬の散歩などにしか費やさない人もいるが、その人の培ってきた知識や経験が生かされないのは勿体無い限りである。

 人間は食べて眠ることを繰り返すだけで成り立たない生き物である。毎日「こういう発見があった」り、「こういうことを考えた」りしなければ、自分の存在を確認出来ない。それは楽しみであり、生きていく意義を見つけることである。何かに打ち込んでいなければそういう発見はなくなってしまう。エネルギーを維持するには、そういう場所に自分を置き続けなければならない。若者であれ、お年寄りであれ、誰かに頼らず自分自身の力で生きていくことこそが、最大のモティベーションなのである。

 そういう意味では「若さ」をもち続けるお年寄りこそが一番強力な存在なのかもしれない。子供の目の輝きをなくさないようにしたい。そう、「若さ」は輝きなのであって、ファッションやメイクなどで醸し出せるものではないのである。年齢に関わらず、その時そのポイントでベストを尽くすことが出来る環境に身を置き、好奇心を持ち、世界にはまだまだ知らないことが沢山あるのだと、広い海に向かっていけるようでありたい。そう考えていると、何か残されている時間がすごく限られているような機がして、ソワソワしてきてしまった。

 出掛けよう!!
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by dn_nd | 2010-09-29 06:44

神様の賜物。
 ボクにとってのソングライティングは、部屋に座ってギターを爪弾きながらメロディーを紡ぎだしていく作業ではないことが多い。まずバンドでスタジオに入る、ギターをアンプに繋ぐ、清水の舞台から飛び降りるように思い切ってリフを弾き始める、バンドがフォローし始めてそのまま演奏を続ける、リズムやフレーズが「すでにある音楽」であるかのようなものになるまで修正され更に演奏、今度は曲がコードチェンジやリズムチェンジを求めてくるので、それに従ったチェンジを「発見」していき、曲全体が見えてきたところで、やはり清水の舞台から飛び降りるような気持ちを覚えつつ歌いだす。それが仕上がる事もあるし、「なんだこりゃ」という結果に終わる場合もある。

 清水の舞台から飛び降りる、というのは決して大袈裟な比喩ではなく、そもそも常に演奏する際に準備しないボクは、演奏始めるほんの数秒前に自分を追い込んで、イメージをニュッと脳から搾り出すのである。そして殆どそれと同時に演奏を始める。そこには、思いつき→確認→行動、というプロセスはなく、思いつき/行動、という物凄くタイムラグのない形で、自分でも理解のないままにイメージを現実化しているという感じなのである。演奏を始めるのに躊躇してはいけない。探ることもしない。ただ「エイッ!」と弾き始めるだけである。

 そこから始まり、演奏を続けることで、「すでにある音楽」を発掘していくような作業なのだ。それは彫刻家が木片を彫っていく事で「その中にある」作品を見つけ出すのと似ている。今始めて作り出そうとしている曲なのだけれど、それは「すでに音楽」であって、しばしボクはメンバーに「あらかじめ音楽にあるフレーズを演奏するように」と言う。そこでどのようなプレイをするのかは完璧に決まっていて、自分の意思では変えられないのである。なので、一体自分がやっていることが「作」曲なのかどうか、自分の中でも曖昧な気分だ。

 最終的に歌詞を付け、レコーディングがすべて終了した時点で、「なるほどこれはこのような曲だったのだな」といつも思う。そこには常に嬉しい喜びがある。そしていつも「これは一体誰のクリエイションなのだろうか」と首を捻るばかりである。「音楽の神様なんだ。」と言ってはいるのだが、自然科学的に考えると、自分の無意識から紡ぎだされた創造物なのであって、そこには膨大な情報の投入があるのだろう。1リットルほどでしかない脳という臓器は、本当に計り知れない可能性を持っている。それでも、「自分の無意識が云々・・」というよりも、音楽の神様からの賜物と考えた方がしっくりくるのだけれど。

 つまりそうやって、今現在「作?」曲中なのです。神様、よろしくお願いします。
 
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by dn_nd | 2010-09-28 06:51

自分子育て。
 「週のうち5日は我慢して働いて、週末や休日は思いっきり自分の好きな事をやる為に稼いでいる。」という人がいる。7日間しかない一週間のうち5日間も面白くない事をやっているのだとしたら、その人の一生はとてもつまらないものになってしまうであろう。やっている事を楽しめていないとき、それは脳へのインプットを遮断している状態である。もしくは、「面白くないなぁ。」というネガティブインプットをし続けている状態である。それがどのような人間を形成していくか、長期的に考えなければならない。

 考えてみれば、何も我慢しなければならない訳ではないのである。人の一生はその人のものであって、世間一般の常識に左右されてはいけない。「仕事とは、我慢してでもやらなければならないものだ」と考えているのであれば、それに対して疑問符を持つ必要がある。

 とは言え、なにもバッサリと仕事を辞めて好きな事だけをやりなさいと言うのではない。「インプット」という部分に関して言えば、仕事を「どう感じながら」やるのかがポイントなのである。単純作業であれば、それをいかに効率よく美しくやり遂げる挑戦を自分の中でやり続けるのも良いだろう。いつもよりもより積極的に、より早く、より多くの仕事をすることで自分と周りの世界がどのように変化していくのか見てみるのも良い。それは実験でもあるし、一種の競技のようなものだと考えることが出来るだろう。

 自分の思考の視座をほんのちょっとずらすことで、インプットの陽性・陰性が変えられるのだとしたら、長期的な自分形成に於いてどちらが良いかは言うまでもないだろう。自分は今この状態に留まっているように見えるが、5年後、10年後も同じではないのである。というよりも、ボクの実感では5年後の自分は想像も出来ないくらい成長しているの違いない。その変化を促す為に毎日セッセと思考し、インプットし、楽しみ、悩み、アップダウンを繰り返す。うん、実に5年前と言っても実に遠いものだ。

 自分が自分を世話していると考える。自分が自分にどのように育っていって欲しいかと望む。自分で自分のことを「自分の子供」のように育てていると考えるならば、自分は自分の親でもある訳だ。どのような親でも「自分の子供(自分)」に、より良く育っていって欲しいと望むだろう。ならば、そうすれば良いじゃないか。
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by dn_nd | 2010-09-27 06:48

ワイルドでアクティブで繊細。
 アメリカツアー中にチャイナタウンでマッサージを受けた時の話を姉としていた。それでもwebで調べて評判の良かったところへ行ったのだけれど、その中国人のマッサージ師のやり方はあまりに乱暴で、力ずくだったので、途中で止めてくれ、と思いつつも最後まで我慢してやってもらった。マッサージ受けてて「我慢」?勿論、身体がほぐれるどころか、かえって悪くなったような気がしたくらいだ。こんな乱暴なマッサージやるような国に世界を渡して良いものかと思ったりもした。これが評判のマッサージならば、日本人のあの丁寧でつぼを得たマッサージ師達がお店を出したら、こんなマッサージ店などはひとたまりもないだろうと思っていた。

 「でもそれが海外の人が求める事どうかは分からないけどね。」というのが姉の意見である。彼女は外資系の保険会社に勤めていて、当然外国人相手の仕事も多く、色々な国を見てきている人である。彼女は、ボクの言うことはもっともだ。確かにどう考えても日本人は仕事が丁寧だし、気も利いている。しかし、それはあくまで日本人が求める基準なのであって、外国人にとってはどちらでも良いというレベルの話なのかもしれないと最近思うと言う。つまり、日本人のマッサージ師だってすでに世界に沢山いる筈で、それを体験している人も大勢いる筈なのに、何故それが主流になっていないのか。確かに。

 技術であれ、芸術であれ、国外に出るとすれば、国外の人々からどう求められるのかだけが問題なのである。いくら日本人同士で日本人の外国人に勝る良さを論じたところで、先方から求められることなしでは、何も意味もなさない。「日本人のマッサージが世界で一番である。」というのをアメリカ人が言っているのであればともかく、日本人が自分達の基準でそれを称えていたとしても、独りよがりな内輪の慰めあいに過ぎないと言われても言い返すことが出来ないであろう。

 また、個人的に日本のメーカーの製品に対するアフターケアの対応の良さ、スケジュールの確かさなどは世界に類を見ない素晴らしい点だとも思うが、それなしでやっている他の国の人々が、そのせいで特に困っているようにも見えない。「それはそういうものだ。」という基準でいれるのならば、「それはそういうもの」なのだ。自分の生活としてはそういう几帳面さが当たり前になっているので、それをどこにいても(どこか)求めてしまうが、世界はその基準で動いている訳ではない。むしろ、「それよりももっと大事なとこがあるだろう。」という雰囲気なのである。確かに、世界中が日本のように規律正しく几帳面になるのも、どうかと思う。世界はワイルドであって好い。

 となると、我々日本人の方がよりワイルドに、よりアクティブになるしかないではないか。開国の志士達はどのような気概を持って、世界と渡りをつけようとしていたのか。日本人はまだまだ「癒し」なんて言っている場合じゃないのである。ワイルドにアクティブに世界に繊細さをもたらす。その姿勢が必要なのだと思ったのである。

 
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by dn_nd | 2010-09-26 07:19

無意識工場。
 脳の中で起こっていることは誰にとっても計り知れないことである。日常的に経験する様々な事柄を緻密に分析、分類してファイリングしているようである。また、ボクが演奏する上で、若しくはあらゆるインスピレーションを得る為に、とても大事に思っている無意識の領域で、どのような膨大な作業が行われているのか。(どうにもボクのイメージの中では、宮崎駿や大友克洋の描く、有機物のような大きな機械がプシュープシューと蒸気を上げてガシンガシン動いていて、沢山の労働者が働きまくっている、あのような光景である。)実際、意識では何も考えていなかったり、只ぼんやりしていると思っている状態であっても、無意識の工場は24時間しかも一生の間作業し続け、「人間」を形成するのに必要なファイルを精製し続ける。その巨大な機械の中には良い物も悪い物も選別されずに投入され、様々な感情の識別によって分類されてしまうようである。

 無意識下では沢山の事が同時進行で「勃発している」のが分かるだろうか?気温や風を感じたり、見慣れた風景を感じたり、時計の針の音を聞き、身体の調・不調を感じ、他人を見て色々と思い、音楽を聴きながら思考が飛ぶのに任せる。無意識の工場にあっては、すべてが膨大なインプットである。それらを処理・精製することで、人に立ち上がる感情に作用していると考えると、何という恐るべき能力をボクらは持っているのだろう!

 無意識工場に投入される物事は自分ではコントロール出来ない。それが素晴らしいものであれ、ゴミのような感情であれ、等しく投入され続けていく。もちろん、ネガティブな感情はそれなりの結果を作っていくだろうし、「感動」はもっとも良いインプットとして、後々機能していくに違いない。無意識を豊かにする事は、自分の可能性を押し広げてくれるのとイコールである。無意識下に豊かな世界を持っている人間は、簡単な言い回しだが、とても幸せだと思う。

 無意識とは、他人事のように捉えても良いのかもしれない。あたかも子育てをするかのように無意識を育てていると考えれば良い。子供を思うように無意識と付き合っていく。「感動」という栄養を日常的に与え、畑を耕すように、自然を手入れするように無意識を豊かに成長させていければ良い。(わざわざゴミを与えることはない。)ある意味で毎日の手間がかかることではあるが、それが自分に大きな可能性をもたらしてくれるのは間違いのない事だ。その成長をひたすら楽しみにするのみである。
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by dn_nd | 2010-09-25 07:09

バブル・ポジティブ。
 何かを突然好きになり、いつでも何処でもそのことばかり考え、居ても立ってもいられない程のめりこんでしまう時がある。その気持ちはブクブクと膨れ上がり、あまりにそれが激しいものだから、「どこかおかしいぞ」と頭の片隅では分かりつつも、オークションや中古物に必要以上の多額の投資をしたりしてしまう。とは言え、その状態が何年も長く続く事はなく、大抵数ヶ月で気持ちが収まってしまうのだが、終わってみると「あれは一体何だったのだろう。」と、のめりこんでいた時期の自分を顧みて悔いるときすらある。マイブームというようなプチな状態ではない。むしろ経済でいうところの「バブル」の状態にそっくりである。

 性格によるものだとは思うが、ボク自身に感情の「バブル」はかなり頻繁に起こるようである。年を重ねてからの方が、その取り憑かれているスパンは短くなってきているが、若い頃から何度も経験している。未だに年に数回の「バブル」が起こる。その対象は音楽の場合もあるし、ある作家/人物である場合もあるし、おもちゃの場合もあるし、恋の場合もある。

 世間的に「バブル」という状態は歓迎されるものではないのだけれど、自分自身に起こった事として考えてみれば、決してそこから得るものが少なかった訳ではない。むしろ、「バブル」があるからこそエネルギーを増大させ、知識を獲得し、自分を洞察し、「好き」のヴァリエーションを増やしていけたようにも思う。「バブル」が豊さをもたらしているとも言える。それなしでは人生もかなり味気ないものになるのではないか。「あれは一体何だったのだろう。」という空虚、そしてそれに続く白けた静寂期や落ち込み。それらはすべて人生にダイナミズムを作り出し、彩りを与えてくれているのである。

 勿論、自分に起こる「バブル」であっても、それが只の浪費に過ぎなかったり、我慢できないという幼児性からくるものであったりする場合もある。(大抵その対象は物である)場合によってはそこから何も学べない時もあるかもしれないが(自分が馬鹿で子供っぽいということ以外には)、自分自身に揺さぶりをかけるエネルギーとしての「バブル」は絶対に必要なものだと思う。そしてそれは社会現象として起こる「バブル」には、まったく当てはまらない無いものなのだろうか。

 経験を重ねることによって、「バブル」の状態にあっても、段々と客観的な目も同時に持てるようになり、自分が現状クレイジーである事、そしてこの盛り上がった状態はいつか終わりが来ること等分かりながらのめりこんでいられる。そうやってその後の落ち込み期をダメージを少なく乗り越えることが出来る。「バブル」が自分にもたらしたものを整理し、身に付けていける。社会に起こる経済のバブルはネガティブだと(例によってマスコミに)植え付けられてしまっているが、もしかすると人間社会の方の経験が不足しているだけなのかもしれない。「バブル」のない人生は寂しい。いずれ、社会においても同じように言えるようになる時が来るかもしれない。バブルの最中にいて欲望を膨れあがらせていても、冷静に達観して楽しめるように成熟していくのかもしれない。ボクらはまだまだ若く青い時代にいるのだ。
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by dn_nd | 2010-09-24 06:12

今日も好奇心を持って。
 30歳を過ぎるようになると、多くの人が「最近面白い音楽なくてさー。」とか「なんだか昔みたいに音楽をのめりこんで聴けないんだよねー。」などと言い始める。若い頃、音楽に触れ、自分の知らない世界がどんどん開けていっていた頃と同じような感覚は求めようがない。何しろその頃は全てが新しく、吸収する場所も更地のままだったのだから、自ら求めなくとも向こうから次々に刺激が訪れてきた。しかし年を重ね、音楽経験も豊富になってくると、「さぁ、オレを驚かせてくれよ。」というような受動的な態度では音楽は楽しめなくなってくる。自らが主体的に音楽を楽しもうとする姿勢が必要となるのだ。それを怠った人達は、徐々に音楽に興味を失くし始め、普通の人へとなっていく。「それが大人になるということだ。」という人もいるかもしれないが、それは若いエネルギーを失くした人の言い訳に過ぎない。

 音楽は生きる上で必要なものか、どうか。答えはYESである。音楽に感動する力を失くした人間は、自分を自由に飛翔させる世界を失くしてしまったのと同じである。つまり、自ら檻の中に入ってそこで安全だが退屈な生き方をしなければならなくなると言う事だ。自分で自分の可能性を信じることが出来なってしまった時、ボクはそれを想像するだけで恐ろしく思う。

 そして常に新しい音楽にドライブさせるのは好奇心を持っているかどうかである。否、音楽に限らず、自分にとってすべての瞬間を楽しむ為に好奇心が必要なのである。どんな小さなことであれ、そこに「好奇心」を伴った視点を持ち込むことで感動できるポイントは見つかる筈だ。その「小さな感動」を積み重ねることでエネルギーは循環する。「若くいる」というのは服装や化粧や食べ物で決まる訳ではない。好奇心を持ち続けていられるか、人生に退屈していないか、目に感動の光を携えているのかどうかなのである。

 実際、世界は、人生は、常に予想のつかない驚きに満ちたものである。どのような瞬間にも感動は訪れる。そう言えば学生だった頃、先輩に「そんなに小さな事に感動していると、大きな感動が来なくなってしまうぞ。」と警告された事がある。彼は何も分かっていない。「感動」というのはお金のように貯め込むものではないのだ。むしろその逆に、使えば使う程増えていくと言ってもいいくらいである。「感動」を出し惜しみしてはいけない。そうすればする程、源泉は枯れていってしまう。好奇心を持って世界と付き合い、小さな感動を重ねていこう。自由は外の世界にあるのではない、自分の心の中にあるものだ。
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by dn_nd | 2010-09-23 06:51

誇大妄想から生まれる現実。
 昔から、自分の考えている事を話すと、馬鹿な誇大妄想家と思われていた。考えてみると、子供の頃からプライドが高く、負けず嫌いだったので、嘘をついてでも相手より一歩先んじようとするのは良くない癖だったかもしれないけれど、心の中では、嘘もつき通せば、いつかそれが現実になるんだと思っていた。それは本当である。と言うよりも、嘘をついたばかりに、それを現実にする為に裏で一生懸命努力していたと言った方が近いかもしれない。

 今ボクが音楽活動を通してやろうとしていることは「世直し」である、と言うと、皆笑うであろう。自分のコンプレックスの根源である「日本」という国の人々の価値観を変えたいと思っていると言うと馬鹿だと思われるであろう。それでもボクはトライし続けてて、いつかそれが現実になる日を夢見ている。それはマッチ棒を重ねていくような行為かもしれないが、建設なのである。時間は膨大にかかるのを承知で考えている。歴史とはそういうものだ、というとまた皆笑うだろうけれど。

 誰の為でもなく自分の為にやっているとも言えるが、皆の為にやっているとも思っている。この志向がボクをどこに連れて行くのだろう。
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by dn_nd | 2010-09-22 06:44

イヴェントを終えて。
 東京・大阪でのイヴェントを終えて自宅へ戻って来た。今回主宰した"Natural Jazz Pop Ballad & Blues Festival" はこれまでのものとは違い、開場からイヴェント終了までの全体の流れが、ズボンズで演奏するような流れが作れるように配慮した。つまり、すべてのバンドがイヴェントのセットの中での1曲かのように、繋がりを持たせ、緩急をつけ、全体のダイナミズムを何よりも重視してやったつもりだ。(そして、それぞれのバンドは自らのセットの中で同じ事をやっているので、かなり重層的な構造になっている)結果として、大成功だったと思っている。やれば出来るもんだ。

 奇しくもファンダンゴ・加藤氏に言われたのだが、「こんなに動き回るドン・マツオを見るのは初めて」だったと思う。(演奏中の話ではない。)しかし何よりボク自身が試したかったのが、「自分の人間力を使って"場"のエネルギーをどれだけ高める事が出来るか。お客さんをリラックスさせ、オープンにさせる事が出来るか。」という命題だったので、その意味で充分良い結果が出た。ボク自身、学ぶことも多くあって得した気分でもある。

 人のエネルギーは不思議だ。それぞれのエネルギーを上手く引き出して、行き着くべき方向に流してやると、それは大きな奔流となって自然と増幅していく。それは魔法である。バンドをハンドリングするよりも大きな対象なので、より注意は必要だけれど、ボクはここからもっと学び、吸収していかなければならないと思っている。何より、こんなに楽しいことはない。

 来てくれたお客さん、最高のパフォーマンスをしてくれた出演者達にモーレツに感謝です。気付かない内にみんなが交響曲を演奏する楽団になっていた。また近い内に次のトライアルをやりたい。更なる新しい楽団員の参加を熱望する。どうもありがとう。
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by dn_nd | 2010-09-21 11:39
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