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また来年、また明日。
 来年(と言っても明日からなのだけど)3月のアメリカ&カナダツアーの日程がどんどんアップデートされている。この間のアメリカツアーの評判が良かったのとレーベル契約が功を奏して今回のスケジューリングはとてもスムースで早い。具体的には3月2日Chicagoで始まって、NYCを経てCanadian Music Weekを含むカナダツアーをやって、旧ルート66を南下、Austin, TexasでSxSW、後西海岸へ。Oaklandにてレコーディングして4月4日に帰国する。今のところ休みは1日のみ。初期のローリング・ストーンズ並のスケジュールである。まったくウキウキさせられる。OaklandでのレコーディングはThe Gris-GrisのGreg Ashleyのエンジニアリングの下、おそらく4日間でアルバム1枚を録音しなければならないであろう。ボクはそれを、レッド・ツェッペリンが1stアルバムを録ったときのようにバッチリと仕上げるつもりである。それはズボンズの新しいタームへの突入にふさわしいものでなくてはならない。キンコンカンコンと祝福の鐘が鳴り響くようなものでなくてはならない。そして勿論、傑作にならなければならない。ボクは全ての周囲に対する配慮を抜きにしてロックアルバムを作るのだ、と先に宣言しておこう。(宣言しておいて無理に自分を追い込むというのは時に良い方法である。)

 今年も始まったときには想像していなかったところに来ていた。楽観的なボクは、きっと来年も今より良い状態にある自分、今より賢くなった自分になっているだろうと思っている。引き続き日本におけるオルタナティブな在り方を追求していくことになるでしょう。みなさん、良いお年を!また明日!!

DON
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by dn_nd | 2010-12-31 10:22

ボクらは良くなって、全然いいのだ。
 自分の発している言葉の、その内に込めている表面には見えないメッセージや要求を、もっとストレートに率直に素直に実際的に発現できる人間になりたいと望んでいる。特に、言葉上では平静を装っていたり、フラットな意見や好意的、建設的意見を述べるふりをして、心にあるネガティブネスや、場合によっては明らかな悪意を、滲ませるようなニュアンスや素振りを含めて発言しないように心がけたい。何かを、誰かを憎むというのは、自分を憎んだり卑下したりしていることの代理行為である。なんとボクらは自分を愛せてないことか!しかしそう理解したところで、そう簡単に治せる癖ではないので、その件に関しては「保留」ということにしておこう。

 自分は駄目だとか満たされてないと思うのをいきなり止めようとしても無理なので、その辺はおいおい改善していくことして、とりあえず「あまりそんなことを考えなくても良い状態」の時間を多く持つのが最良かと思う。それを「現実逃避!」と非難してはならない。愚痴をこぼす自分を野放しにしたところで現実は特に良くなることもないからだ。そうではなく、ひたすら「あぁ、いいなぁー」と思いながら出来ることに時間を費やせば良い。

 以前Mattaさんが「クマクを描いて、人に"癒されますー"なんて言われるのが不思議だ。自分は他人を"癒す"ような人間ではないし、そのような内容のものを描いているつもりもないのに。」というようなことを言っていたが、それを描く行為が、それに費やした時間が自分にとってより無心である為に、その「心」がイラストから立ち上がってくるのではないかなと思う。「癒す」というのは単純に記号化された言葉で(例によって)ボクの好むところではないが、ズボンズの極端に激しいライブを観た人の中にもそう言ってくる人がいるのである。日本人だけでなく、アメリカ人にもいる。実際にボクはライブ演奏を、何かを破壊する為でもなく、何かを批判する為でも糾弾する為でもなく、自分の不平不満を発散する為でもなく、茶化したり自分の力を誇示したりする為でもなく、ただ無心で行うよう努めている。(つまり、努力しているということです。)ボクはRock Musicを全面的に愛しているので、それが「空気メッセージ」として立ち上がっているのだと信じたい。

 すべてを「善きもの」にすることは出来ない。しかし、自分を「無心」に近づけることが善き空気を招くのであることを知っていると良いと思う。「世界みんなが良い人になったら気持ち悪い~。」などと言っても構わないが、「良い人間」というのは何も穏やかなお坊さんという訳ではないだろう。激しく、感情的で、時にはマイクスタンドを放り投げたりする「無心」もある。そこから立ち上がってくる「善きもの」とは、生命の躍動の漲りである。そんな無尽蔵のエネルギーを自分が「あらかじめタダで」持っているということを思い出すことで救われる部分は多いはずである。なんだかんだ言ってマイナスな部分が多い(と感じる)世界であり自分である。ボクらはもっと良くなって、全然いいのである。
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by dn_nd | 2010-12-30 09:44

雑感#12292010
 仕事納めという感じの渋谷へ。アメリカから打診のあったレーベルが送ってくれた契約書の細部を検討する為に、「大っぴらには出来ないが、陰で根強くズボンズを支持してるぞ会」の面々と。(業界内で密かに強くボクらを応援し続けてくれている存在もあるのです。某メジャーレコード会社や、某メジャープロモーター会社の人々。いつか日本のロックがかっこよくなってくれるように、陰に日向に暗躍している秘密結社でもあります。フリーメイソンほどの影響力はないですが。革命の準備は常に水面下で行われています。)いつもいつもお世話になります!内容も問題なさそうなので、このまますんなり契約ということになるでしょう。来年は忙しい1年になりそうです。

 本来ボクは年末は、大晦日という架空の最終回に向かって盛り上がり気分を感じていたい人間なので、もう実はその次の瞬間から始まっている新年はなかなか力強いスタートを切れないのだけれど(全然準備が出来ていない)、今年は来年3月のレコーディングを含むアメリカツアーの準備があるので、大晦日無視という態度でいるように心がけている。ちょっと油断すると「もう年末だなぁ。」と思っていそいそと夏目漱石なんか読み始めてしまうので注意が必要である。(実は読んでいる)

 最近は、1年というのはちょっと短いように感じる。1年という区切りで考えていると、あれも出来なかったこれも出来なかったという気がしてくるが、考えてみればボクは100%フリーランスで決算なんかもないし、通信簿もない訳だから、この後やれば良いだけではないか。1年という時間軸に起承転結を求めてしまうのは、学校教育の名残かもしれないなぁ。プロジェクトは1年というタームで終わると断言できるものではなく、一週間で済むものもあるし、やり続けているのを忘れてしまうくらい長く続けているものもあるわけだからして。

 ともかく今考えなければならない大きなことは3月のアメリカツアー、新作のレコーディング、日本でのリリースをいつにするかとツアー。若手ロックバンドへのおせっかい指導、あたりか。まぁ、考えなければならないように思うことが沢山あって目減りしていってないというのは有難いことかもしれない。
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by dn_nd | 2010-12-29 14:50

開いたドアの先に。
 内田樹氏の著書「街場のアメリカ論」を読んでいる。非常に興味深い。ボクにとって、またはおそらく日本という国にとって、アメリカというのは大きな存在であり、アメリカを理解し考え抜くことによって初めて自分の姿が分かる部分があり、これからの自分達にどのような「生き抜き」の可能性があるのかが見えてくるように思う。(いずれにしても日本という国は大きな分岐点にいる。このままで良いということにして沈んでいってしまうのか、新しい方向性を見つけ努力するか。)

 暴力とアメリカは切っても切れないものだ。アメリカでは空気の中に暴力の匂いがある、と言うと乱暴だが、常にある種の「ヒリヒリした感覚」があるのは分かる。ヤバイとか、危ないとかそういうものではない。乱暴、粗暴、危険、などと日本語で表現しようとしてもし切れないものがある。それは実に自然なもののように(そこでは)感じられるからだ。暴力の匂い(という表現はふさわしくないのだけれど、とりあえず)が自然などと言うと、どんな恐ろしい国かという気になるが、一方でそれは自由や解放や可能性というものに結びついていることにも気付く。片方はネガティブな、もう片方はポジティブな発露なのかもしれない。あえて一言でいうならば「開いている」というのに近いかもしれない。

 人間を開くというのは、そのようにネガ・ポジ両方のエネルギーが放出されるというのは理に適っている。(だからこそ人間はその両方をある程度抑制するようなシステムを大なり小なり作り上げてきた。)日本にはそのような空気はない。頭のレベルでは、人間にしっかりと抑制が効いているし、より社会的には成熟していると言えなくもない。しかし、ここにきて我々はその成熟や抑制という良き側面を「抑圧」という圧力に感じ始めているし、他者に無理やり「一般論」的な圧力をかけたりして、まったく自然に調和がとれた状態でなくなってきている。

 これらは全て直接的・間接的にアメリカからの影響であるのは間違いない。あのヤング・カントリーが世界に示した人間の「開き」は、それぞれがつつましく調和を計ろうとする世界に、大きな揺さぶりをかけるのである。そうして初めて「自分にももしかしたら大きな可能性があるのかもしれない」という欲望の目を覚まさせてしまったのだ。そう感じるのにそれを開花させることが出来ないと思うのはストレス以外の何物でもなく、それが元になり、また自分の可能性も信じ切ることができないせいで、ボクらはグルグルとした不安定な状態におちいってしまっている。

 アメリカはどんどんとドアを「開いて」いく。しかし、そのドアの先に何が待っているかは本人も誰も分からない。ドアの先には別の世界がある。一度開いてしまうとそれが無かったかのように振舞うことは出来ない。パンドラの箱のように、とんでもないものが出てくることだってあるだろう。しかしアメリカは躊躇しない。どうであれどんどんドアを開けていく人達なのだ。随分はた迷惑な存在なようにも思えるが、それにより我々にもより良いものがもたらされるのも分かっている。また、同様に我々を混乱させもする。さて、このような状態のときに、我々はどのような態度や心持で対応すれば良いのだろう。理屈抜きでそこに混じって楽しむのが一番!とも思うが、簡単にそうは言い切れない。それぞれの個性、というか人間性に嘘をついてまでついていってしまうのは、かえってしんどい結果を招いてしまうだろう。

 オープンでいることである。また、身体性を鍛えておくことである。何があっても、どうなったとしてもそれに対応し、保つことができる柔らかな自分を持つことである。自分の心の囁きをはっきりと聞き、それに従う勇気を持つことである。簡単ではないが、それしかみっとなくならずに生きていく方法はないように思う。
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by dn_nd | 2010-12-27 09:51

マスが作る軸。
 日本に帰ってきてから、とんと新聞を読まなくなってしまった。新聞ばかりか、ほとんどニュースに触れることもなくなってしまった。TVなんかは勿論見ない。ネットのニュースも同様だ。ボクはそういうものに興味を失くしてしまった。政治であれ経済であれ、マスのレベルで語られるものは、取り上げるトピックを変えただけでメンタル的には女性週刊誌と同じだからである。ニュースの提示というよりも、「その世界」で起こっていることを新聞社の演出したストーリーの上で語っているだけの陳腐な代物である。そういうものに巻き込まれて一喜一憂するのが楽しい人達が、持ち上げたり足を引っ張ったりして形成している閉じた世界であって、ボクにはもっとやることが沢山ある。

 むしろそこにいると世界を見失ってしまう、と感じる。オレはオレのやり方でやっているからニュースになんか関心ない、などと言いたい訳ではない。ニュースに関してはtwitterから浮かんでくるものをフォローしていれば、より本質的なものが入ってくるように思える。(twitterは無駄も多いものであるが、多面的な意見をあれだけ一気に立ち上げることでフィルタリングできる部分は大きい。問題はそれを「自分が」どう考えるかである。常に。)日本におけるマスメディアへの信頼は、低い。そこが閉じた世界である為に、「マスメディアのストーリー」の中での自分の役割を果たしていることが大義になっているのであろう。そのような人々に何を言っても通らない。(信者みたいなものである)勿論、そこから得るものもないと、ボクは感じている。マスコミの一喜一憂は、ひどく遠い世界の話のような気がするのだ。

 日本で世界を語るのは実に骨が折れる。語っても語っても届かない気がする。世界を語る、というのは何も世界の政治や経済や文化のことを言っているのではない。世界というのは自分のことである。自分のことを自分を軸にして語ることである。日本で難しく感じるのは、誰もが自分の軸で語らず、マスコミや芸能界のような、「世界」から考えるとすごく小さなローカルな軸で話すところである。自分の軸で話さない人間を相手にするのは、もはや無駄だ。一秒だって無駄である。

 ボクは「一般的」に言われていること、その全てに疑問を投げかける者である。「あそこのケーキは美味しい」だとか、「音楽業界は不景気だ」とかから、はたまた「年を取ると老けてくる」とかそういうことまで。何も天邪鬼でいることを前提としている訳ではなく、自分の身体感覚が、魂がそれを是としているか非としているか、どう感じているのかを無視したくないだけである。我ながら人間としてまだまだ無知で、感情的にも相当未完成だと思う一方、伸びしろが残っているように思う。向かうべきはそっちである。自分を伸ばす為に時間をフル活用したい。毎日学習、毎日実験、毎日実践である。
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by dn_nd | 2010-12-26 09:44

海に飛び込む。
 今さら書くことでもないが、Youtubeはすごく便利である。ボクは映像よりも、専ら音源を聴くために使うことが多い。Mattaさんは、海外のミュージシャン仲間がUPしているものをフックとして、ボクはそれを参考にしつつなんとなく日常的に引っかかっているものを検索し、更にその先へと掘り下がっていく。そこは新しいもの古いものという時系列はなく、偶然性に満ちており、Mattaさんに言わせると、「ちょうど昔ラジオでエアチェックしていた時と同じような感じ。」なのだそうだ。なるほど、そうかもしれない。iphoneなどを使っていると、街中でも次々と好きな音源、聴いたことがない音源をpickしながら行動できる。そんなに手間ではない(ただ1~2回クリックするだけである)。自分がDJでありながら、自分の知らない、聴きたいと思っている音源をかけているようなものか。

 違いと言えば、それは「自分の意思」でなされなければならないという部分である。インターネットの世界は巨大で、音楽に限らず情報というものに関して言えば、ほとんどすべてがあると言ってもさしつかえないだろう。しかしそれらは、こちらが積極的な働きかけをしなことには浮かび上がってこない。「自分の意思」を持っていないと、アッという間に大量のデータの海に飲み込まれてしまう。実際そこは海である。広く深く、中にどんなものが存在しているのか、どんな危険があるのか分かり得ないのである。飛び込み、自分の意思で戻って来なければならない。しかし海に飛び込むことで得るものは多い。もちろん、飛び込まずにいて、誰かが取ってくる獲物だけで満足することも可能だが、労して自分で獲得したものこそ価値が高いのは、言うまでも無いであろう。

 帰ってきて、日本はインターネットのアクセスに関して、結構遅れているんだなと思う。アメリカのようにどこにいても、かろうじてネットだけは繋ぐことが出来るという状況ではないみたいである。この遅れは、いまだにそれほど沢山の人が切実にネットアクセスを望んでいないことの現れだろう。(携帯が繋がれば充分なのだ)これは、そもそも受動的態度を強いられ、慣らされてきた日本人の性質と無関係ではないと思う。インターネット世界は、あくまで能動的な必要がある。海に潜る人間だけが何かを掴み得る世界なのである。

 グローバルな世界はひとつの大きな海を共有している。そこには日本で良く言われているような「貧富による教育の格差」はないように思われる。すでにすべての分野の最高の学府があり、あとはそれを「自分が」どう学んでいくかである。人間の生き方を規するのは、その人自身である。学ぶことは棚からぼた餅が落ちてくるのを待っているように、誰かに授けられるものではない。自ら貪欲に獲得していくものである。そうしてグローバルな世界を理解していれば、それはどこにいても習得可能ではないか。あとは実際に身体で経験することで、それは確固とした質量を持って、自分の人間に備わっていくであろう。それは自分自身の肉ともなり、自分を守ってくれる鎧ともなろう。

 問題はそのような姿勢を持っているかどうかだ。そうして、その姿勢を伝えることであろうと思っている。何を言われても、何度でも海に飛び込んで何かを掴むことである。飛び込む自由を、飛び込む楽しさを喜びを満喫することである。
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by dn_nd | 2010-12-25 09:11

ゾンビになってはいけない。
 そもそも、物事の好き嫌いや評価は、あくまで個人の判断でなされるべきものである。誰もがそれを分かってはいるものの、我々日本人は、どうにも相対的な価値判断をしてしまう癖がある。今となっては癖というよりも、呪縛に近いものになってしまっているのだが。自分が何かを良いと思う、しかしそれを確信するには誰かの同意が必要になってくる。万が一それを他人に否定されてしまうと、自分自身が否定されたように感じてしまい、とても悲しい気分になってしまう。なので、自分が好きではあるものの、相手がそれを受け入れてくれそうでなければ、心の中にしまっておいた方が良いように思う。誰も傷つきたくはない。そして、実は相手の方にも同様に別の「自分はこれが好きなのだがしまってある」という項目がある。それらは簡単には外に出してもらえない。俄然、「誰もが好む」ものだけが最小公倍数的な話題としてピックアップされることになる。雑誌やTVで話題になっていて、バカなタレントが馬鹿なコメントをしたりするような代物である。馬鹿なものに違いないというのは分かってはいるのだが、それに巻き込まれざるを得ない。一人になったり、(やはり)傷ついたりしたくないからだ。日本人は少数派を馬鹿にする傾向がある。それを放っておくことができない。「大多数が好むものは誰もが好むものだ」と思い、ついには「好まなければならない」という強迫観念に変わってしまう。自らが進んで獲得した訳ではないが、誰もが好むからという理由で手にしたものも悪くないときもある。ある意味では自分の嗜好を広げてくれることになるかもしれない。しかし、本当の自分の好きなものは、あくまで心の中にしまわれっ放しなのである。そうして、最小公倍数の価値基準の世界が我々を包囲する。まるでそれこそが自分の「リアル」な世界であって、自分の心の中の方が仮想の、夢の世界であるかのように。

 最小公倍数の世界で感じている物事は、言うなれば分厚い豚の皮みたいなものである。皮の部分で判断し、皮の部分で生きていると、皮のような存在になってしまう。皮はあくまで皮であって、それが大事だと言えなくもないが、やはり肉あっての皮であろう。身体は肉が動かすのであって、皮が動かしているのだとしたら、それはゾンビである。そして、ゾンビがゾンビを作りだすことは、ボクらは良く知っているではないか。

 ボクの言っていることは目新しい意見でもなんでもない。ずっと昔から言われていることである。それだけに誰もが諦め、無関心になってしまっているであろう。癖を直すのは難しい。しかしそこに真っ直ぐに向き合ってなければ、癖を癖と捉えることすらできない。(それがゾンビだ。)一歩前に踏み出すというのは、それがコンマ何十桁後の1の動きであっても、ゼロではない。そしてそれがゼロでなければ、見えないほどの動きではあっても、世界は動くのである。駄目だ出来ないと思っていることであっても、またそれが生を終えるまでに果たすことのできないことであったとしても、更にそんな努力を誰も評価してくれず、そればかりか揶揄されたとしても、足を引っ張られたとしても、コンマいくつかの動きを重ねよう。自分の厚い皮の下の肉を躍動させよう。今までが駄目だったからといって、これからも駄目だなどと諦める必要はないのである。誰もが最初からゾンビなわけではない。
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by dn_nd | 2010-12-24 09:09

正しかろうが、なかろうが。
 主義主張を持つ、というのは良いことのようにも聞こえるが、自分の本分を分かっていなければ、それは可能性の幅を狭めることになってしまうと認識していたい。ボクに関していうのであれば、それは思想や政治よりも何よりも「ロックする」という部分に於いて全うされるべきことであろう。結局、良いも悪いも自分の心の判断を素直に聞くしかないのであり、結果は随分先にならないと分からないことも多いものである。

 そのようなことをRolling Stonesの1970年の映画"Gimme Shelter"を見て思ったのでした。これはかの悪名高い「オルタモントの悲劇」を含むストーンズの1969年USAツアーのドキュメントフィルムで、この時ストーンズは明らかにあまり考えもなく、自身のハイドパークでやったフリーコンサートやウッドストックの成功から、アメリカでのフリーコンサートを企画する。そしてそれが(舞台がアメリカであったが為に)いかに危険で無配慮な行為であったかをまざまざと見せつけられることになる。最終的に強面のヘルスエンジェルスでいっぱいのステージ上でビクビクしながら演奏しなければならなくなった上(誰だって、それは怖い)、客席での殺人というとんでもない事態まで引き起こしてしまうのだ。このコンサートでストーンズが背負わなければならなくなった負積は、とんでもなく大きなものだったろう。

 しかし彼らはそれでも生き延び、そして何よりも「かっこいい」自分達の姿を残せた為に、現在でも説得力のある姿を世界に示すことができるのである。フィルムではミック・ジャガーは割合シリアスで真剣な表情をしているが、その後はおそらくこの事件に長く感情を引っ張られてはいなかったと思う。また、責任もそれほど(長くは)感じなかったのではないか。それは本質的な意味に於いて、自分の役目を全うしているとも言えるし、時間と共に「正しかったかどうか」というものとは別の意味合いが出て来ているように思う。映画の中で「正しかった」と言えるのは唯一「ストーンズはかっこ良かった」という事実だけである。それ以外の思想的・社会的・道徳的「正しさ」はポンと宙に放り出されたまま、こちらが考えなければならないものとして提示されているようだ。

 ストーンズのかっこよさは間違いなく「正」のベクトルである。それだけが人間を浮き浮きさせる。人間の頭は思想に納得・説得させられるが、心はそれに弾まない。理屈としての正しさは生命の躍動としての正しさとはまた違うポイントにあるのであろう。人間は最終的に頭で判断をする。しかしその前に心がどう感じているのかを頭での判断ポイントの一つに加えるように心がけていたいと思う。その時点では後悔することになったとしても、本分を果たしていれば、周りは風化して砂になっても真ん中の宝石だけは残ると信じたい。頭は案外堅く視野が狭いものである。それよりも物事の偶有性から引き出される可能性を信じて、そこに飛び込んでいかなければ。


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by dn_nd | 2010-12-22 14:07

Cheap keeps cheap.
 ワーキングプアだとか、いつも「お金がない」といっている人間と会っても、何言ってやがると思ってしまう。マスコミが言うところの「景気が悪い」やら「貧困」やらについても同様だ。これだけ物に溢れていて何が経済的に苦しいもんか、と思う。しかし、日本人が「貧しい」というのは一面、事実かもなとも思う。昨日スーパーのレジで並んでいたところ、ボクの前には若い女の子がいて、買い物カゴのなかにはヤマザキのハムタマゴパンやらダノンのヨーグルトやらペットボトルのお茶やらお菓子類やらが沢山入っていて、800円くらいを支払っていた。これらが彼女の血となり肉となり、精神を形成するのかと思うと、非常に情けなく、寂しい思いがした。これはお金の問題ではない。それを支払えるだけのお金を持っているのである。それでも貧しいとしか言い様がないではないか。

 ミュージシャンでも「CDを買うお金がない」と言いながらもコンビニで弁当買ったり、お菓子買ったり、iPhone持っていたりしているのを見ていると、それはまぁ(言っては何だけれど)大した音楽を作ったりできないだろうと思う。音楽に限らず物作りというのは、才能や情熱だけで出来るものではなく、「良い音楽をどれだけ(主体的に)吸収してきたか」の延べの積み重ねによってアウトプットされるものである。エジソンのいう「1%の才能と99%の努力」の99%の中には間違いなく学習努力(意欲的にも経済的にも)が含まれている。そしてミュージシャンというものは、あくまで理想に向かっていかなければならない存在である時代ではないかとも思う。70年代のパンクムーブメントの頃と違って、文句だけ垂れ流ししていればかっこ良かった時代はとっくに終わってしまっている。

 コンビニ食などで満足できてしまう感覚は、貧しい。感覚の貧しさは、ワーキングプア等に代表される金銭的貧しさよりも、より惨めでみすぼらしい状態である。「成り上がり」の時代と違って、物事で財を成すのが難しい時ではある。また、金銭的頂点を目指すことの空しさを誰もが分かってもいる。だからと言ってその人そのものの精神や生き方を貧しいものに落とし込む必要はないはずだ。貧しい精神は貧しい感覚をしか養いきれない。貧しい感覚しか持ち得ない人間は、それと気付かないまま貧しく死んでいくしかないものであろう。ボクの言っていることが分かるだろうか?コンビニ食によって作られた精神というのは、コンビニで売られているのと同様にチープなものである。コンビニでは本物のティラミスが永遠に手に入らないのと同じだ。
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by dn_nd | 2010-12-21 09:35

裸になってみよう。
 誰かが何かを言ったとき、それに対してネガティブな物言いや、反論をしてしまいそうになるとき、何故自分はそういう気持ちを持っているのかを考えたい。それは心の底にある恐怖感なのか、不安感なのか、嫉妬感なのか。また、ネガティブな反論をしたところで、その会話がどのような結末に向かっていくのかを見極めたい。もしくは、逆にポジティブな論の場合はどうか、ただ軽く流してみた場合はどうか。人間の心は、考えられないくらい微細な感情の動きをしている。投げかけた言葉がどのように響いたか、瞬間相手がどのような表情を見せたか、それを細かく感じ取っていることに気付くだろう。そしてその結果、自分自身がどのように発言するのか、どのような感情の着地を迎えるのか、正に多様な未来選択をやっているのである。

 どうして、自分も相手も良い気分にならないことになるのが分かっていて、言わなくても良いことをいってしまうのか、と思う。言ってしまわなければ自分の気が収まらないのか。しかし、その後迎える双方の不快な感情の現れは、自分の瞬間の気の収まりと対価と言えるのか。そしてそれは自分が一番望ましいと思う未来に繋がっているのだろうか。

 言ってしまう、というのは、実に瞬間的・反射的行動なので、出してしまったものはしょうがないかもしれないが、そのことでもし心がチクチクと痛むのであれば、出来るだけオープンに自分が現在進行で感じていることを相手に伝えてしまおう。次は相手がどう思おうと、心を裸にしてしまって、率直に揺れ動く自分の感情をソックリ話すことである。人間はややこしい動物である。心で思っていることと表情や言葉で表すことを別なものに出来る。それでも、時には率直にストレートに、心と身体をコネクトしたい。照れくささや駆け引きやプライドで物を言うのではなく。そうすることで、自分がやはり祝福されて世に出てきた存在だということを確認できるように思う。

 日本のニュースを見ていると、どうも足を引っ張りあって先に進もうとしていないのではないか、と感じる。ネガティブなニュースを提供する側も受ける側も、結局はエンターテインメントしているに過ぎないのだが、そこにどっぷりと浸ってしまっていては裸の自分に戻れなくなってしまう。裸の自分は、すでにオリジナルであり、自分の感情と考えを持っている、祝福された存在である。そこからどんどん離れてしまったり、忘れていってしまうことは、魂の存在意義に反することと思う。

 そういう細々とした失敗や反省、高揚や喜びを持つのも人間の楽しさでもある。まるで心の中でいつも初期のディズニーのアニメのようなくねくねちりぢりしたムーブメントがあり続けているのかと思うと、それもまた楽しいものではあります。
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by dn_nd | 2010-12-20 09:10
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