ズボンズのリーダー,ドン・マツオの思考あれこれ。
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おいしいパンの作り方。
 おいしいパンについて考えている。ボクらは当たり前にパンを食べているが、海外に出てみるとその味や風味は勿論、扱われ方や存在の意識のされ方、売られ方が「まるで」違うことに気付く。味や風味について言えば、「日本の柔らかくて甘いパンが最高で、とても外国のなんか食べられない」という人もいるけれど、ボクにしてみれば外国のパンを食べてしまうと、日本のパンは風味も薄く歯ごたえもなく味付け過多に感じる。そのような訳で自分で食べるパンは、せっせと自分で焼くことになる。粉の配合や水加減、塩や混合物(ナッツの皮であったり、お茶であったり)に工夫し、レシピを調べ、自分の好みのものを自分で作り、自分で食べる。時々おいしいと言われるパン屋で食パンを買って食べてみることもあるが、大抵自分で作ったものの方がおいしいように思う。

 どうも似たような事を仕事としてもやっているように思う。パンという文化は欧米からやってきたものだが、日本人はすっかりそれを自分達のもの化して、別物として定着させてしまった。今や誰もパンについてエクスキューズすることはない。あの売られているパンが日本人にとってのパンである。しかし違うパンを知っているボクはそれに満足することが出来ない。そしてあろうことか自分がパン屋になってしまった。違う概念と嗜好を持つ自分の国で。しかもしかも自分のパンを海外でもどうか、と問おうとしている。まったく(こうして書いてみると)途方もなく無茶な話なようだ。

 自分が作れるおいしいパンというのはどういうものだろうか、と思う。そこには最大限の想像力と学習してきた知識と、信念をつぎ込む必要がある。風味があり、歯ごたえがあり、粉の味がしっかりしている焼き立てのパン。世界中に様々なパンの在り様がある。ただ空腹を満たす為だけのひどい代物も数多く存在するけれど、そこには間違いなくそれ以上の感慨を与えるものもあるのだ。食べることの幸せを感じさせるものは、同時にその他様々な幸せについて考えを巡らす心を、感謝を誘発する。なんと言っても、すべてはそこに繋がるべきなのだ、とボクは思う。
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by dn_nd | 2011-01-31 10:18

豆ネジの一個まで。
 ボクらは社会性と実際的に自分の感じる身体感覚の狭間を行ったり来たりする。つまり、世間一般的に、これまで教育されてきた考えのライン上から想定される「自分」と、自分自身が「今ここ」で知覚内外に感じ取っている「こと」の間を「自分はこう感じているのだけれど、あまりそれは一般ではないし、もしかしたら自分の感覚がおかしいのかもしれないが、やはり確かに自分はこう感じているなぁ」といった具合に、グラグラと揺さぶられ続けている。「自分らしく」というのが正論だと判っていても、それでも自分自身の方向性にいつも自信満々という訳にもいかなくて、どうしても社会一般の価値観という頑丈に出来ている(ように見える)土台に立っていなければ不安なのである。ところが、一旦社会性というキャンバスの上に自分の絵を描こうとすると(そこには簡単な定規や鉛筆や12色の絵の具しか用意されていない)、それまでイマジネーションの上で大きく輝き羽ばたいていた「世界」が、とんでもなくみすぼらしくちっぽけでありきたりの、西友ストアで売られていたりするようなもののような気分になる。スーパーで売っているものは、間違いなく手に入れることが出来る。しかし、それは大きく輝くものではない。

 このように「ボクらが」創り上げてきた「社会性」は、閉じた小さなストーリー(それは最小公倍数の世界だ)の上にボクらを落とし込む。そこはあらゆるものが具体性を持っており、現実的に手に取ることが可能である。また、それを伝えるのに何のジレンマも苦労も伴わない。勿論それは人間をより小さな存在に向かわせるし、適応出来ない人間を自己批判へと追いやってしまう。なんともボクらは大変な「世界」と折り合いをつけながら生きているものである。

 音楽を聴くということ、若しくは音楽の存在意義は、社会性に「?」を突きつけることである。自己の身体感覚を再発見するトリップである。ボクは17歳の時にRolling Stonesの"Let It Bleed"というレコードを聴いた。今でも初めてそれをターンテーブルに乗せた時のことをありありと思い出すことが出来る。その時、部屋の光はどのように輝いていたか。レコードは一度聴いただけでは理解できず、ボクはそれを何週間か繰り返し繰り返し聴いた。ある日、ボクはこの音楽がすごく好きになっていることを「発見」し、気付いてみると自分がそれまでの自分とまったく違った自分に組みかえられていた。すべての部品は豆ネジ1個に至るまでバラバラに分解され、吟味され、組み直されていた。その時にボクはミュージシャンになろうと思いもしなかったけれど、預言書の1ページに「何事か」が書き加えられたのは間違いない。

 その頃から今に至るまで、ボクに一貫して言えるのは、大した事のないただの普通の人間であると言うことのように真剣に思う。他の誰とも違う能力がある訳でもなく、突出したセンスの良さなど持ち合わせていない。しかし音楽はボクを組み替え、しっかりした土台に足をつけるのに常に「?」を突きつける。それは実際リスキーな行動だと思うが、その土台からジャンプしている時だけは実際自分が「世界」に必要とされているかどうかと考えなくとも存在出来るように感じている。そしてそこには「やるべきこと」も少しはあるように思える。これでいいのだという確信はまだない。不安か?不安だ。社会世界はそれを求めていないようだ。それでもボクの身体世界は「やるべきこと」をやるときのみ扉をオープンにする。跳びたいのだ、とボクは思う。
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by dn_nd | 2011-01-30 10:30

考える身体。
 頭で分かった・分かることだけがすべてだと思い込まないようにしなければと思う。日本の学校教育の悪影響かとも思うが、どうもボクらは、例えば音楽なんかにしても、頭で分かる部分にのみ強く意味を持たせてしまう傾向がある。どうも感受性の強い10代の頃に「この作者の言いたいことは何か?」という不毛な問いに答え続ける努力をし続けたせいで、反射的に対象の「言いたいこと」「伝えたいこと」を考えるようになってしまった、のか?主張やメッセージ性の強い歌詞や、寂しさ・「今の」自分を表して「くれているような」歌にシンパシーを覚えるのはそのせいかと思う。

 しかし、そこで「感じる」ことを止めてしまってはその先まで行けない。ボクは意味や主張を知らない(もしくは理解できない・あてなまらないetc...)にもかかわらず、心にズシンとくる音楽があるのを知っている。Smokey Robinsonの"You've really got a hold on me"の身体に沁みてくる感じを、その歌詞からのみ説明することは不可能である。というよりも、いかなる言語活動をフル稼働させたところで、「それ」が「来て」いることを説明し尽くすのは、ものすごい時間を要するに違いない。(自分個人の歴史的背景、音楽専門的解析、その日の気分etc...)例えばSmokeyが「百合ヶ浜放るトンビ」ともし同じようにあの調子で歌っていてもせまって「来る」ものはちゃんと「来る」ようにも思う。(ちょっと無理やりだけれど。)実際それは頭を通してではく、心を通してやって来る。そもそも頭だけで納得できても、「なんかどっか違うんだよな、うまく説明できないけど」、と思う。きっとそれは身体の方が考えているのである。

 脳だけではなく、身体その細胞の集合体それ自体、というか、その個々の細胞それぞれが「思考」する。現に身体に「今日の調子はどうか?」とか「これに関してどう思うか?」と尋ねたり対話したりするのはみんなやっていることであろう。一般的に脳だけが中央集権的にすべての「思考」と「決定」をするように思われているけれど、勿論本当は身体全体がそれぞれの思考する主体であり、それを自覚していると脳の負担はずいぶん少なくなるようにも感じる。(身体が記憶システムとしていかに優れているかは、とっさにある行動に出ることが出来ることで、誰しも納得するであろう。)むしろ、頭で理解出来ることだけが全てだと思うことは、おこがましいことである。その意味で、身体を大事にすることは、実に必要なことであります。どうにかもっているから大丈夫、と考えているのは脳の方か、身体の方か。
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by dn_nd | 2011-01-29 09:47

雑感#01272011
 Rolling StonesのGet Yer Ya-ya's Outという1969年のライブ盤を聴きながら、こんなにかっこいい音楽をステージで演奏するなんて、どんな心地がするのだろうと10代の頃に考えていた。「それ」を体験するというのは、どのような手堅く自分の想像の範疇で達成可能なものではなかった。例えば、どんなどんな憧れの自動車も頑張ってお金を貯めれば手に入るかもしれない。しかし、「あれ」を体験するのは、自分が「あれ」になることでしか達成し得ないことである。(お金を出せばミック・ジャガーになれる訳ではない、勿論。)同じことを別の満足で代替にすることはできないのである。それを求め、求め、一歩でも近づくように力を張り、挑戦し、自分自身をそのものへとシンクロさせていくことで、ようやく実感を得る。「こんな感じかも知れないな」と。しかしその時には、自分が10代の頃考えていたようにそこが頂点ではなかったことを知る。すでに自分のやっていることが希求していたような音楽とは違うものになってしまっている上に、その為に自分の課題は別の形で果たされることを待っているかのように見える。それでもその頃には、課題を果たすことが自分の活動そのもののようになってしまっているから、そうすることに苦痛も絶望もない。ただひたすら課題をこなすことが生きることとイコールなのである。こう教育されたことに、非常に喜びを覚えると共に、やはりStonesに感謝しなければと思う。教育とは、与えられるものではない。求めるものである。そして、教育を通過することで、自分が以前の者とは違う自分になっていることを発見するものである。


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by dn_nd | 2011-01-27 09:54

アンダーグラウンドの実験場。
 昨日はライブが2本。午後6時から渋谷にて、午後9時30分から吉祥寺にて。どちらも「流し」でないフルのライブである。同じ人間が同じ態度で演奏をするのだけれど、自身の音楽へインプットする情報に様々な違いがある為に、結果的にかなり色合いの違うステージになる。それは演奏者本人の状態もあるし、環境や競演する演奏者達からのフィードバックもあるだろう。とにかくその時全身で感じているインプットをズボンズの音楽という装置に入力して、さて何が出てくるのだろう?とボクはステージ上でも考えない訳にはいかない。科学者が実験をしているようなものである。更に、演奏の途中でも「ここでこのような入力があった場合には、どのような変化が立ち上がるのだろう?」と、瞬間の思いつきを加えていく。何も起こらないこともあれば、大きな変化を起こすことになる。その化学変化にボクはスリルを覚えている。

 ボクはほとんどの場合、トラブルがあってもその修繕の為に演奏をストップするのを好まない。ギターの弦が切れたりするのはトラブルの範疇に入らないが、昨晩は1st showでドラムのスネアの皮が破れ、2nd showではギターのボディが割れていたりしたのだけれど、状況を回復させる為に演奏を止めることはしなかった。そのような回避出来ない状況で初めて起動する脳のシステムがある。演奏を続けながらどのような出口があるのかをフルスピードでリサーチするのだ。スネアを交換するまでの間に繋ぎで演奏できることはあるのか(しかも間に合わせでなく、いかにも「それがあたかも最初から予定されていた」かのように)、または万が一替えのスネアがなかった場合にどのような大きなエンディングをスネア無しのドラムから引っ張り出すことが出来るか。その他いく通りもの選択肢が提案されては消え、進行する状況の中で最善の選択を最小限の時間の中でやるのである。そしてそれが上手くランディング出来たところで、音楽はまた違う色合いを見せ、ボクに違う演奏のし方を要求する。

 このような態度で音楽をやっていると、自分が果たして「ロックミュージシャン」という分類に入るのかどうかと考え込んでしまうこともある。演奏しているのも、曲は曲だけれど、あくまで実験に使用する装置に過ぎないような気もしてくる。または、大まかな材料とでも言うべきか。なので、セットリストがどうだったかという話は、ボクにとってはあまり興味のないもので、あくまでその時どのようなアウトプットになったか、ということなのです。
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by dn_nd | 2011-01-24 10:22

変化が常態。
 ボクは基本的にアンプは現場にあるものを使うことにしている。また、場合によってはエフェクターやギターですら、そこにあるのを使って演奏することもある。それは実際不都合なことだし、そんなことをしているミュージシャンには(どんなアマチュアであっても)会ったこともないのだけれど、ボク自身はそうであることを前提として受け入れているのである。勿論、ボク自身は自分の出す音に大きなこだわりを持っている。しかしそれと「いつも同じ機材を用意していなければ自分の音が出せない」という考えとは違うものだと思っているのである

 むしろ「同じ機材を用意しているのにいつもの自分の音が出ない場合がある」ように考えている。というよりも、自分が「その場その時」に出したい音というのは、すごく微細なものであっても、常に一定ではない。極端な話、サウンドチェックで決めたアンプのヴォリュームや場所ですら、本番に取り掛かるときには「どこかシックリこない」ものになってしまっていることもある。ボクは「ははぁ、会場の響き方とか、お客が入ると変わるもんね」というような話をしているのではない。そのような外部的な原因で起こる変化ではなく、自分の内部的な変化によって「今出したい音」が微妙に変わってしまうということなのである。

 この問題に関しては、随分長いこと悩まされてきた。そのせいで結構人にも迷惑をかけてきたようにも思う。なにしろ、リハーサルで決定したものなのに、本番では「これじゃない」と言われてしまうと、ステージを手伝ってセッティングしてくれたりする方々には何のことか訳が判らないであろう。しかも自分の内的変化だと自覚出来てなかった頃はそれを外部の不備として八つ当たりしたりするので、実際質が悪い。

 すべては、過去のルールが現在の自分にも適用出来ると信じているから起こるのである。もっと言うと、自分という人間が一瞬一瞬の間に変化し続けているのを無視しているから、リハーサルでやったことを担保しておこうとするのである。変化そのものが常態であるのを理解していれば、どうあっても「まぁそんなものかな」と思うほかない。そのような行動は「気まぐれ」と写るのは良く分かっている。しかし、どう考えても人間は「気まぐれ」なものだし(ボクだけが特にそうなのだろうか?)、要は「気まぐれ」であっても最終的には仕事を万全にやり遂げることで義務を果たせるかどうかである。自分に「気まぐれ」を許す為に周囲に周到な配慮が必要だ。「気まぐれ」と「我儘」はまったく違うのだと自覚していなければならない。(しよう。)

 その為にボクが担保するのは自分の感覚だけであって、不都合な音響や機材や人のせいにしないように鍛えているだけの話なのである。(あくまで鍛えている最中なのですが。)考えが「居着く」ことのないように、優秀なボクシングの選手のように常にフットワークを軽く保たなければならない。決してギターやアンプ運んだりするのが面倒だ、という訳ではないですよ。
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by dn_nd | 2011-01-23 09:18

漱石のおこす運動。
 先月末から夏目漱石を読み続けている。明治・大正という時代は、無論ボクの実感からは遠い場所ではあるが、どこか身体にじわじわと滲みてくる部分がある。現代という視点に立って是か非かということは脇に置いて、以前の日本人には「こうあるべき」という「型」があった。近代へと向かうにつれそこからの脱出を試み続けてはいるものの、どうもそれが上手い着地点を見出せていないところに、現代の自分達の居心地の悪さ、不安感と言っても良い、があるようにも思う。

 昔の大人はこうであった、しかし自分はそうでありたくない、それはあまりに「型にはまりすぎている」ように見えるし、自分という個性はそのようなものに収まるものではない、もっと人間は自由で、個性を持っていて、自分の好きなように生きて行くべきである、と思う。(また、そう教え込まれてきた。)しかしそう考えるが為にいつまでたっても自分が大人になったような気がしない。「これをやっていれば」とか「こういう風になれば」大人であるという「型」を見出せないのである。年は取り、頭は成熟していくのかもしれないが、その双方ともオープンエンドで終わりがない。「これで良し」というモデルケースがない生き方は、人間を不安にさせる。しかし、現段階で「大人」のモデルケースというものを上手く想定することは難しいものだ。

 なので俄然社会的地位や収入など比較が簡単なものに頼ることになるが、結局そういうものはつける人員に限度があるし(誰もが社長になったり、誰もが高収入になれるものではない)、やはりそこに満足を覚えるのも無理矢理なものではなかろうか・・・・・。などとグルグル考えていると、読んでいるつもりが一向にページは進んでいかないで、同じところを行ったり来たりしている。漱石や他の文学、哲学者、思想家は簡単な答えを与えてはくれない。それらはひたすら「自分」に揺さぶりをかけ、自分で問いかけるアクションを即すのみである。
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by dn_nd | 2011-01-22 07:08

身体で作曲。
 ボクが音楽を創作する際に最も重要視するのは「身体性」である。やっている時は判らないのだけれど、後で録画したのものを見たりすると、演奏中に自分がやたらと動いているのを知ってちょっと驚いたりすることもある。それはリズムをとっているという程度のものでなく、ノッているという状態でもなく、演奏するということと身体を動かすということが、影と自分と同じように切り離せないものになっているようである。コードワークや歌詞などは、勿論(後になって)頭で構築していくものだけれど、ほとんどの曲そのものの成り立ちは創り始めた最初から「身体にしっくりくるかどうか」で選別されてしまう。

 実際にボクは立って作曲をする。以前雑誌の記事に「物を破壊しながら作曲」と誇張して書かれたこともあるが、立って(つまり身体を動かしながら)作曲をするので、たまたま部屋に置いてあるスタンドや机の上のあれこれにぶつかったりして壊してしまうことがあるという話である。それが普通かどうかは判らないけれど、ボク自身は昔からそうやっているのである。

 その意味で「身体性」というのは他のあらゆる要素より優先される。何か特別に訴えたいこと、主張したいこと、伝えたいこと等々があったとしても、「身体がそれを許さない」のである。故に「ドン・マツオの歌詞には意味がない」みたいに言われることもあるが、まぁ仕様がないかもしれない。(だったら本でも読んではどうか、などとはとても言えない。)このようなアティテュードは決して伝わりやすいものではないとは思うが、ボクには他のやり方の選択肢はないのである。

 身体にしっくりくる、というのはあらゆる側面に於いてボクにとって最優先事項である。食べ物も衣服も住居も、すべてその判断システムに伺いを立てた上で決定していると言って良い。「身体」の感知は脳の判断よりほんの一瞬先んじる。その一瞬走る電流のような知覚をしっかりと掴み、判断の基準とするように自分を鍛えてきたようにも思う。現代社会において「身体優先」というのはあまり喜ばれるものではないので、時々現実的に苦労することがあるのかもしれない。その癖、身体が休みを求めていても寝なかったり出来るのはどうしてだろうか、とも思う。なかなか一筋縄ではいかないものですね。
 
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by dn_nd | 2011-01-19 10:37

雑感#01182011
 全面的なアルバム制作モードに入っている為に、こういう文章を書くことでのアウトプットが難しくなりつつある。音楽につぎ込んでいる分、他で小出しにするという事が出来ないというのもあるが、ひとつの考え、アイデア、ひらめきを文章にして固定してしまうと、今度はそれ自体に絡めとられてしまい、音楽に還元することが難しくなってしまうからである。(実は昨日も書いたが、丸々消去してしまった。)毎日色々なことを考えるのだけれど、頭の中でパスを回されているが如く、あっちにいったりこっちにいったり、ああでもないこうでもないとやっている間に熟成していったり、余計なノイズとして処理されていったりする。「これだ!」と明確な啓示を得る時もあれば、その翌日にはそう思えなくなってまたストレイ・シープに戻ってさまよわなければならない。俄然インプット過多になってしまい、食べ過ぎの内蔵のように脳が疲弊してくる。(考えてみれば1リットルしかない脳の中で全てが創られているって、すごいことですよね。)内蔵が食べ物等から栄養を腑分けするように、脳内にある様々なファイルと現在進行で起こっている活動を脳くんががんばって音楽へとトランスレートするのである。あるものはリズムとなり、あるものはメロディーとなり、あるものはただの(しかし自分にとっては重要な)残響となり、あるものは歌詞というダイレクトなものへと形を換える。

 それがダイレクトである為、歌詞に思いを託すミュージシャンも多いかと思うが、ボク自身の実感として歌詞に託せるのは、その音楽スケールの30%くらいなものかと思う(数字は適当である)。それ以外のものは読み取られることを息をひそめて待っているのだが、これを言語化するのは難しい。身体で感じている部分というか、毛穴から入ってくるような成分だからである。そういう部分が多い音楽がボクは好きである。ちょうど、お風呂より温泉の方が身体の暖まりが「より深い」のと似ている。

 さて、今日ボクが書けるのはここまで。また何とも言えない一日が始まるようである。昨日は調子良く感じていたが、今朝はどんよりとした雲の気配がある。また一波乱起こるのであろうか。もしくは停滞か。むむむ。レッツ・ビギン。
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by dn_nd | 2011-01-18 06:32

手持ちのカードを使って。
 ボクは料理をするのが好きである。時にはゴージャスに材料を揃えてやるときもあるが、大抵はその場にあるものを使ってやってしまう方だ。冷蔵庫に残っている材料、有限の手持ちのカードだけを使って、その中から最大限のパフォーマンスをやるというのは、実際料理だけでなく、音楽を作る・演奏する場合も同じことをやっているように思う。時に高望みして「もっとこれくらいあればなぁ」とないものねだりしたり、「自分の実力はこんなものではない」と過度の自己評価をしてしまうこともあるが、そういう考えに捕われている時ほどパフォーマンスは低くなる。「今持っているものを出来るだけ有効に使う」という考えが自分の中に浸透していれば、どのような場合であっても、どのような状況であっても、どうにかやっていけるものだが。(がんばろ。)

 というのも、アルバムの制作を考えている最中なのである。たくさんの偉大な先人の作品を知っているだけに、時に高望みしたり、時に落胆したりしてしまう。手持ちの材料、手持ちの能力を使って、最大限の理想型へ向かうしかない、と肝に銘じて、やるぞう。(がんばろ!)
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by dn_nd | 2011-01-16 06:52
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