ズボンズのリーダー,ドン・マツオの思考あれこれ。
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言葉が背負っているものは。
 昨晩、ライブが始まる前に「言葉」というものの使い方という事に、人はもっと注意を払うべきであるという話をメンバーでしていた。(そこに行き着くまでのストーリーもあるのだけど、ちょっと長くなってしまうので割愛)話すにせよ書くにせよ、どのような「ちょっとした」言い回しであっても、そこにはその人の人間性と本性が立ち上がっている。なので、ボクなんかは怖くてtwitterなんかにも気軽に書き込めないくらいである・・・・・・。

 カントリーソングを聴きながらそんな事を考えていると、遊びに来ていた息子の友達がボクのところへ来て、「それをパクるんですか?」とイノセントな顔をして尋ねてきたので、ボクは思わず背筋に冷たい物が走ってしまった。ミュージシャンがコンピューターを眺めながら音楽を聴いている姿を見て、その子はそういう発想に辿り着いたという、そこまでには結構複雑にネジれた思考回路があるように思う。もしかすると、ボクらが考えているよりも小学校というのは取った取られた、盗んだ盗まれたのワイルドな場所になっているのかも知れない。しかし、ごく普通に考えてこのケースは、きっと親がそのようなことを(割に頻繁に)言うような家庭なのだろうと理解するするのが一般かと思う。そういう価値観を持つ人々が少なからず(もしくは結構たくさん)いる世界にいる寒々しい実際を彼の一言から、頭で理解するよりも先に魂の方が感じたので背筋が凍ったのでしょう。いやはや。ちょっとした一言で親の人格まで担っていると思うと、なかなか迂闊なことは言えないものですね。

 もちろん、次のZOOBOMBSのアルバムはカントリーアルバムになりますとも!

 
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by dn_nd | 2011-04-29 16:32

鍛冶屋がスターだった頃。
 引き続き「アフリカの日々」を読書中。当時のアフリカ人の間にあっては、鍛冶屋のたてる鉄を叩く音ですら「音楽」として人々に聴こえていたという話。人々が鉄を叩く音の中にリズムを、楽しさやエロティックさを見出していたという話である。(なので、鍛冶屋が仕事をしている時、人々はそこに集い、女達は熱い視線を仕事する男に投げかけていたらしい。鍛冶屋はスターだったのだ)更にその昔はヨーロッパでも同じだったということは、日本もまたそうだったのだろう。そう思うと、焼けた鉄を叩くカチンという音を最早ノイズとしか聴き取れない現代を生きるボクらとのイマジネーションの豊かさや、感覚のきめ細やかさの違いに、絶望的に当時の人達に憧れる。

 もちろんこれは、今となってはファンタジーである。ディネッセンが本を書いてからですら100年も過ぎた未来にボクらは生活しているのだから。そこには人間が手に入れたものと失ったものがある。便利さを手に入れ、豊かな耳を失った、と書くのはとてもつらいことで、ありきたりな常套句のような気すらするけれど、本来人間はそういう機能を持っていると信じたい。一体ボクらはどんな動物に成り果ててしまったのだろうか。
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by dn_nd | 2011-04-22 06:51

雑感#04202011
 ディネッセンの"アフリカの日々"を読んでいる。産業革命後"進歩した"ヨーロッパ人がアフリカで暮らす人々を見て本来の人間を想い、自分達は何を手に入れ、何を失ったのかを静かなタッチで描いてある。我々はひたすら進歩していかなければならないというような、一方向の選択だけではないという希望が、そこから感じられる。気持ちのバランスが取れていくように思う。

 実際、鬱々としていたのである。過酷だが達成感の大きかったアメリカツアーから戻ってきてのディプレッション、帰ってからの日本の現状への驚きと不安と幻滅、ひどい花粉症、と心体共にまるで平静でいられない毎日の中で未来に怯え、「今ここ」に集中できなくなっていたようである。「今ここ」にいなくなってしまったとき、ボクらは不安に飲み込まれてしまう。世間が不安であっても、その感情に自分が染まってしまっては、身動きが取れなくなってしまう。ここはやはり自分が「今ここ」でやるべき仕事に集中して、心のチャンネルを切り替えなければならないのである。

 6月に熊本のバンド、フルーツが(漸く)ボクがプロデュースしたアルバムをリリースするので、その発売記念イヴェントに参加することになっていたので、ついでに1週間ほど九州に滞在して、気ままなミニソロツアーをやろうと思っている。何か糸口があるならば、それがどれほど小さなものであっても、そこから始めるしかない。それが厚いコンクリートの壁を釘で穴を開けるような行為であったとしても、その先へ繋げるにはつべこべ物を考えずにやるが良かろう。レッツら・ビギン!!である。

 
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by dn_nd | 2011-04-20 06:29

Doorsについて、から脱線。
 アメリカにて、ズボンズの音楽と演奏について頻繁にThe Doorsが引き合いに出されるので、「そうかね」と思いつつ聴き込んでいるうちに、とても好きになってしまった。(と言うか、昔から偉大なバンドでした)このように、第三者から得た「自分について」の情報をこちらがしっかりと受け止め、確認作業をすることで得るものはすごく多いものである。過去にもSantana、Fela Kuti、Funkadelic、Pink Floyd等々、ズボンズを聴いた人から引き合いに出されて後付け的に自分達の音楽に滋養をもたらして「頂いた」経験がある。どんなものであれ、誰かが「キミらは○○が好きでしょう?」とか「○○のようだね」と評された時には、そこに何らかの得るもの有りと素直に従ってみるべきである。その先は別のドアに繋がっている可能性が高い。(クーラ・シェイカーというのも3人くらいに言われたけれど、それはまだ聴いていません。聴くべき、なのか。あと、ブラックサバスも、どうだろうか。)

 Doorsは6枚のスタジオアルバムを1年に一枚のペースで出し続けていた。どれもその音楽の質は高いのだけれど、ボク的にはやはりファーストアルバムと最後の"L.A. Woman"が群を抜けて素晴らしく思う。ではこの2枚だけ聴けば良いのか、という話になると、その中抜けの状態では「Doorsのかっこいい音楽」をカタログ的に、知識として蓄えたことにはなるかもしれないが、そこに込められた人間存在の底深さを味わうことはできないであろう。つまり、Doorsを「あなたの」人生の役に立てることは出来ないだろう、と思う。(そんなことは余計なお世話かも、知れませんな。ハハハ。)作品、そのすべてをガバッと引き受けてみると、そこには良い作品があり、それに対して、そうでもないものを作り出している状態(しかし、良いものを作るべく苦闘している状態)もあり、その「差」がどのように発生しているのか、どのようなクロニカルな状況にいたのか、そのときの心理状態を想像し、資料を集め、自分自身の人間と比較検討することで、音楽はより深く心に残っていく。それは深い滋養をあなたに与えてくれるであろう。

 人間が生きるとはどういうことか、成長するとは、老いていくとはどういうことか、すべての質の高い芸術作品はそれに対する「示唆」を与えてくれる。(もちろん、答えを出すのはあなた自身である)「音楽は所詮芸能だ」と言う人もいるけれど、確かに今をみんなと楽しむという喜びや癒しや祝祭を第一義に考える芸能的音楽家の在り方もあるが、そうでなく、人間存在の深みについて踏み込む試みは、もっと別の部分で受け手に作用するものになる。だから、同じ音楽とは言っても、一括りには出来ないようにも思う。とかく現代のようにまず「儲けはどのくらいか」という話になってしまうと、芸術家は黙ってしまうしか他あるまい。芸術は教育の本質と同じで、入力から結果が出るまでにものすごい時間がかかってしまうものだからである。だからと言って、教育と同様、芸術のない世界がどれくらい恐ろしいものになるのかは、考えてみれば分かる。

 今現在はなくなってきているようだが、震災当初は音楽・演劇等の催し事の自粛があったようだが、それも日本の伝統的に音楽等をお祝いや喜びの時に催す「芸能事」としての認識の元に起こったことに違いない。実際「芸能」人の空洞な馬鹿騒ぎなどは、このような事態の下では見たくもないものであるが(ボク的には普段からだけれど)、心の深くに踏み込む音楽等はむしろ必要なものである。それは一時的に楽しめるからではなく、そこに理屈を超えたある種の救済があることを「たましい」の方は気付くからである。

 (ありゃー、Doorsについて書こうと思っていたのに随分脱線してしまった!うーむ、また次回!!)
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by dn_nd | 2011-04-14 13:31

田中くんへの回答。
 もう選挙については書くまいと思っていたのだけれど、下のコメント欄に田中くんが書いてくれていたのに返事を書こうとしたら、長すぎて収まらなかったので、またまた書くことにします。

 多くの人が指摘してくれたように、それが効力を持たないからと言って無投票で済ますというのは、現状の選挙制度に於いてはNGなのかも知れない。現民主主義の否定だという人もいた。でも、ここのところずっと日本の行き末について考え続けていたボクには、今回の選挙を震災/ 原発事故から続く一連の「日本人としてこれから進むべき道」を見出す思考/ 運動の一環として考えざるを得ないのでした。地震・津波は天災だったとは言え、それ以降起こった事々は東電や政府の無能さが引き起こした人災と言われるけれど、問題の根っこにあるのは、現在の「日本人の価値観や考え方」であり、そのすべてが集約された形で発現したものに見えるのです。

 そこに原発が作られ、容認し、そこから享受される富を「我々は」喜んで受け入れてきたし、原発建設にしろ事故修復にしろ、あらゆる初動の段階での行動のまずさは「現場はそう思っていたにもかかわらず、上まで通らなかったので出来なかった」というもの、つまり日本人の公の場における自発的行動不能のシステムともいうべき問題ではないか。(個人的な場に於いては、諸外国も認めるように、実に日本人は思いやりのある素晴らしい行動をする)何故我々は「やるべきである」その一歩先へと行動することが出来ないのか。言い方を変えると、切実な大きな「公的」問題になればなるほど、どこか「これ以上は自分では考えられない」=「誰かもっとエライ人に解決してもらいたい→そうするのがアタリマエでしょう」と信じてしまうのか、であります。この思考システムからブレークスルーしない限りは、今回の震災も「ただの」巨大な災害の一つになってしまうだろうし、復「旧」することで、同じ過ちを続けることになるであろうと考えているのです。ここから気付きを得て、日本人は大きく変わる必要があるのではないか。

 常に自分の頭で考え、自分の最善を行動する。このようにシフトしていくことが0311以降の日本を理想に向かわせていくと信じています。ボクは、そこに経済や合理性ではなく、純粋でシンプルな信仰(悪いことをするとバチが当たるみたいな)ものが必要となってくると思います。(もちろん、それは「そもそも」日本人が持っていたものですが。)大事なことは、この大問題/大仕事を「自分が」引き受けることです。

 遠回りになってしまったけれど、「引き受ける」というのは今回の選挙に行くことと何の関係もないとボクは考えています。投票すべき対抗馬がいなかったから行かなかった、というのとも結構違います(もちろん、存在すれば行ったでしょうが)。今回の無投票は、単に石原氏にちょっとケチをつけたかったのと、ただ常識的に選挙に「行くのがアタリマエ」と考えることへの個人的な疑問と現実的な無意味さを考えた上での結論を表明したまでです。もしかしたらわざわざ表明しなければ良かったのかもしれない。いずれにしても、石原氏に対する悪感情は、文字通り単なる「感情」論に過ぎないとも思っています。(あんにゃろ〜、馬鹿なことを好き勝手言いやがって〜、みたいな)彼が何と言おうと、現実に原発を作る訳ではないし、もし実際に無茶苦茶な政策を施行するならば、選挙なしで都民は立ち上がらなければなりません。本当の緊急時には選挙は意味をなさないのではないか。ベルリンの壁や共産圏や一部の中東政府の転覆は選挙でなされた訳ではありません。そして、ボクの考える「日本人が遂げなければならない変化」とは、そのような人間のパワーを引き出してこそ成されるものだと思っているのです。

 いずれにしても、未だ日本はエッジに立ち続けており、日本人は明治維新・大戦の敗戦時以来の変化を求められている時の渦中にいるという考えにボクは賛同します。ボクは政治家でも思想家でもなく、1アーティストです。「政治的なミュージシャン」でもありません。それでも、日本人として真剣に考え抜き、自らのやるべきことを見出し、理想を求め続けたいと思っているのです。(うーむ、まだ言葉が足りないような気もする。考えを文章にするのは難しいですね。)
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by dn_nd | 2011-04-13 13:43

暗闇を取り戻すと。
 選挙の件で「無投票で」と表明したとたん「この馬鹿者め!」と沢山の人に怒られてしまった。むむ、確かに馬鹿かもしれない。すみません。とは言え、馬鹿なりに自分の頭をうんと捻って考えだした結論であったです。これからも叱咤激励していただければと思っております。(「ドン・マツオ、音楽は良いけど、考えは浅はか。ノータリン。」と烙印を押されるのも、自分としては悪くないような気も・・・・オット、こういうのもイカンですかね!)

 浅はかついでに思うのだけど、震災後に自粛ムードが蔓延していて、みんながお金を使わなくなると経済に活気がなくなって問題である云々などという記事を見たり、実際そう言う人もいるのだけど、それほどホイホイお金を使わなければ本当に社会は駄目になっていってしまうものなのだろうか?ボクは普段から、どう見ても日本人は無駄遣いが過ぎるんじゃないかと思っていた人間なので、この震災で「節約する生活」が定着するのであれば、それはむしろ喜ばしいことだと思っていたのである。節電して原子力発電に頼らずに済むようになるのならば、銀座が夜9時に真っ暗になったって良いじゃないか。TVが夜12時以降「砂あらし」になったとしても、駄目なのだろうか。24時間営業のお店をすべて無くそう、とは言わないまでも、あり過ぎなくても良い。もう一度「暗闇」を取り戻すことで、人間の精神が取り戻すものは多いように思うし、何でもホイホイ買える社会でなく、どうしても欲しい憧れのモノを一生懸命働いて買う社会になった方が勤労意欲も増す・・・・のじゃないかな?(もしかして自分は本当に馬鹿で浅はかな意見を書いているのではないかと、ちょっと怖いね。)

 もしかすると「けいざい」の人々は、バブル以降、0311以前の経済状況に戻るにはという前提で、そういう分析をしているのかもしれない。「あれくらい裕福に暮らすには、みんなでお金使って消費することで回していかないといけないのですよ」と。ボクはそんな消費社会に戻るのは真っ平である。「ワ!私の年収低すぎ・・・・」とか「年収ウンヒャク万より低いウチの子は、学力も低くなる統計結果」とか、そのような広告などを見せられる毎日を取り戻したいと全然思わない。そもそも変な価値観を持った社会になってしまったなぁと毎日考えていたのである。一体誰のせいだろうか。馬鹿な都知事のせいか!?(あー、すんません!ボクは無投票だから石原支持扱いでしたネ・・・トホホ。)

 馬鹿で浅はかなボクであるが、どう頭を捻っても節約し続けることにネガティブな要素があるように思えないのである。「節約し続けると、あんたの子供は教養も身に付けられないし、碌な人生歩まなくなるよ!」と脅されると転びそうになってしまうが、顧みてみると、ボクの実家の家計は相当火の車であったと思うけれど、兄妹4人全員大学も出ているし、とりあえず(ボク以外は)真っ当な人生を送っているように思うが。今がそうじゃないとしたら、やはり「今」の方がおかしいのではないのかな。低いレベルで経済を回すということが出来ない国だとしたら、また、これまでと同じ社会であり続ける/あり続けたいのだとしたら、そんな国を好きでい続けるのは難しいと感じているのです。今回のような大きな被害になっても尚、改めないならば。

 PS、昨日の高円寺での反原発デモにマッタちゃん&ピットが参加してきました。けっこう大きなデモになったようで嬉しいです。ex-ソウルフラワー河村さん、The Beachesのアユコちゃんの顔もあったそうです。今現在(おそらく)それほど原発が稼働していない中で東京の街はそれほど不都合だろうか?それほど我慢を強いられているだろうか?これでも電力会社や原発推進派の人々は原発がなければ電力が足りないという「定説」を言い続けることができるのだろうかね。
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by dn_nd | 2011-04-11 17:04

変わらなければならないのは。
 帰国して初めてのライブが終了した。色々と考える部分はあるのだけれど、忘れてはならないのは、そこが母国であれ、やり慣れた会場であれ、長く他の国で活動してきた後には「他の国」になってしまっている、ということである。つまり、「初めての場所で初めてやる」という心持ちと準備でやらなければ、実感と予想/期待にずれが生じてしまうということである。日本だから大丈夫などと、油断していてはイケナイのだ。とりあえず、新曲/旧曲半々のセットをやる。新曲とは言っても、レコーディングした後では旧曲のようなものではあるけれど。

 さて、選挙の朝である。昨日のブログに「都知事選挙行かない方が良い」と書いたところ、あまり理解が得れなかったようなので、追加的に書いてみよう。

 今回の都知事選、何かと問題発言が多く、いささか人間にも問題のある石原慎太郎にどうしても当選して欲しくないので、実際は誰も支持していないのだが他の候補者に投票してどうにか石原氏に一矢報いたいという流れがあるのだと思う。気持ちとしてはボクも同じなのだけれど、そこでもう一歩突っ込んで考えてみたい。現実的に石原氏当選を阻むことが出来るのか。何故に石原氏を降ろす為に他の同様にロクデモナイ候補者から消去法的に選んで投票しなければならないのか。そして結果的にこの選挙で「反・石原」として一票を投じたという事実だけに満足する行為にしかならないのではないか。実際に再度石原都知事が誕生してしまうという事態になってしまった時に、「それでもオレは戦ったんだ」という満足感で終わってしまっては、「石原氏を降ろす」という最終的な目標への何の到達もないではないか。

 更に一番大きな問題点は、石原氏に拮抗できる有力な他候補者がいないというところである。「今のところ支持はもう一歩だが、浮動票を集めればとりあえず勝てるかもしれない、と期待できる人間がいない。今回の選挙はあまりにタイミングが悪い(石原氏にとっては良いタイミング)。本当ならば、1ヶ月でも選挙自体を先延ばしにしてもらえるのが一番良いのだけれど、戦後の日本が民衆にそこまで温情的かつ国の行く末に思慮深くなってくれたためしはないのである。スケジュールはスケジュールだから、である。だから、ボクが思うのは、今回は負けるしかないであろう、ということだ。負けて、向こう4年間、石原氏に良い思いをさせ、我々の税金から給料を払ってやって、悔しい思いを噛み締めながら次の機会に備えるしかないのではないか、ということである。そして4年の間、決定的に変化をする決心を持って、我々は政治を監視し続け、自らの社会の理想と有力な候補者を見出し、次は絶対勝ってやろう、というのがボクの考えである。決定的な敗北感を持って、次へのバネにしなければ、と思う。なので、今回は負けるが、どうにかして石原氏にケチをつけることが出来るとしたら、なるべく投票率を下げて「30%の投票率の中でしか当選出来なかった都知事」という肩書きをなすりつけてやるしかないではないか、とボクは考えているのである。これが選挙の義務を放棄した子供じみた行動であるのは分かっているが、それでもどうにかして「現実的に」石原氏に一矢報いたいからである。もう子供のように「チェッ、4年後を見てろよ、バーカ!!」と言ってやるしかないのである、今は。

 また、一方で、今回の選挙戦に於いては、万が一石原氏以外のどの候補者が都知事になったとしても、現実的に我々が得れる利益が薄いのではないか、ということも考える。ドクター中松氏が都知事になったとして、ボクらの理想の社会へと向かっていけるのだろうか。それらはかえってボクらの生活へのディスアドヴァンテージになってしまうかもしれない。他の誰でも同じである。石原氏の許しがたい発言は、それが実際に自分の生活を脅かすものでなければ、我慢しよう。「あの馬鹿野郎」と言っていれば良いのだから。花見なんか、行けば良いだけの話である。原発推進といっても、彼自身が原発を作る訳ではない。ほっておきなさい。しかし、ボクらが本気であり続ける決心をすることこそが一番大事な点である。もし都知事が実際にトンデモナイ(例えば原発を増設するだとか)行動や行政をしたときに、しっかりと立ち上がって、本気で大きく「NO!!!」をつきつけてやるぞ、という決心である。

 この震災で日本人は変わらなければならない。その為のプロセスとしてあらゆる機会を捉えたい。今回の選挙もそうである。前の自民党/民主党への政権交代のとき、ボクらはまだまだ自覚不足だった。今回も同じ轍を踏んではいけない。変わるのは政権や都知事ではなく、自分自身である。自分自身が自分の社会に自覚的に関わっていく変化、それを計るためのステップとしての選挙でありたい。
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by dn_nd | 2011-04-10 07:41

選挙戦2011。
 明日は各地で選挙である。もちろん、選挙というのはいつでも大事なことなのだけれど、この今というタイミングでの選挙というのは、まったく違った意味合いと重要性を持っている。更に、東京都知事選という自分の居住している街の大首長を選ぶという事態で、多くの良識を持つ、または自分の方向性を持っている、または日本に変化を望んでいる人達が途方に暮れていることと思う。(そういう人の)誰もが石原慎太郎は一番当選して欲しくない人間であるが、世論調査で彼は大きな支持を集めており、一方で石原氏に対抗してもらえそうな(それが政策でなく、票の多さだけであっても)候補者はまったく見当たらない状況である。おそらくかなり高い確率で石原氏が当選することになるだろう。あれだけ無茶苦茶なことを放言して当選するのだから、本人はまるで反省のないまま都知事を続けることに違いない。そしてボクらは我慢してせっせと彼に給料を渡すべく、税金を払うことになる。そして、彼は何の躊躇もなく、そのお金を受け取るであろう。

 問題は、対抗者がいないという、わざわざボクが書くまでもない理由である。タイミングとして、あと1,2ヶ月後だったとしたら、有効な人間が現れた可能性もあるけれど、もはや遅い。それにしても、他候補者の散々な顔ぶれは一体何なのかと思うけれど、「東京」という大都市というシチュエーションが、個人を持って立つことを阻む力があるようにも思う。同じ大都市だが、まだ大阪であれば、大阪を愛して立て直そうと考える人間は想像できる、それを支持し、人々がまとまり、政策が有効に作用するかもしれない。しかし、「東京」というシチュエーションはまるで違う。「東京」を、「そこにいると便利だから」という以上の大きな理由を持って住んでいる人がどれだけいるのか。合理性や経済性を超えた「東京の人が好きだ」という愛を持てるだろうか。候補者にその「愛」というモティべーションが必要であるのと同時に、生活者である我々にも必要なのである。そして、現実は課題ではなく、結果なのだと、ボクは思っている。

 さて、現実的にボクが今回の選挙でやれることは何か。乱暴なことだが、選挙に行かないことである。誰もが、とにかく石原降ろしをしたくてロクデモない他の候補者に投票しに出掛けるかと思う。誰もが(アイドルまでもが)選挙は大事だから行かなきゃ駄目ですよ、と言い続けている。民衆に選挙権が行き渡るまでに、どれだけの人の血と汗と涙が流れたことかと。しかし今回は選挙権を行使することで、自分の意思を反映させることはかなり難しい状況だ。ならば、とにかく投票率を落とすしかないのではないか。投票率60%で当選した都知事ではなく、30%とか20%しか投票してない中でしか当選していないとなると、当選の意味合いがまるで違う。白紙投票もイケナイ。あれもきっと投票率に組み入れられてしまう。不支持の票を他の候補者に分散させるのではなく、「無」として表明する。ボクにできるのはこれしかないように思う。それしか有効な行動がないというのも末期的な気もするが、ここはここである。これをやったところで(何をやったところで)、石原氏が都知事になるのを阻むことは出来ない。しかし、当選の意味合いに影を落としてやるのだ。我慢してでも選挙に行かずに、投票率を下げる、これしかない。

 むしろ花見や反原発のデモにでも行ってはどうですかな。

 
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by dn_nd | 2011-04-09 06:46

幼年期の終わり。
 首が相変わらず痛むのだが、考えてみれば結局自分の動作の洗練されなさ・至らなさからくるものである。激しくリズムに乗るという運動が、洗練された滑らかなものでありさえすれば、このように身体を痛めないものである。当日はステージが狭く、ちょっとでも動くとギターをどこかにぶつけそうだったからカヴァーする為に制限をつけながら動いていて、というのは言い訳に過ぎない。ただ激しく動いてそれで身体を痛めるというのであれば、それは「ただのその辺の人」である。誰にだってできる。ボクの目指すところは、準備運動なしでもその活動に瞬時に入っていくことが出来、最高のパフォーマンスをしたうえで、身体に損傷を与えないというものである。これは今まで頭をよぎっていたアスリート的なスポーツ選手の在り様とは違い、もっと精神性を伴った武道的なものに近いのかも知れない。自らの「力」でもって動きを制したり、パフォーマンスを上げることではない。「力」を「借り」、そこにうまく溶け込むことである。

 帰国してから0311以降の自分/日本という問題が日に日に大きくなっている。もはやボクらは0311以前には戻れないのだなぁ、と思う。ここを境に今まで良しとされていたり、容認されていたりした価値観や思想はすべて見直しを図らなければならないように思う。日本の高度成長期以降に幅を効かしていた物質崇拝・経済崇拝・合理性崇拝が結果としてどのような世界へとボクらを導いていったのか。「楽しければ良いのだ」「自分さえ良ければ良いのだ」という言い草が、これからもこの国で通るのだとしたら、そこはボク自身がいるべき世界ではないのだとすら感じる。自分のやっていること、存在そのものに厳しい問いかけが必要であろう。

 これまでボクらには、「世界」は自分でコントロール出来る/出来ているとの傲慢な思い込みがあったのではないか。しょせん世の中なんて金や色や欲で成り立ってんだよー、と強がっていたのではないか。そのようなTVや雑誌や「世論」から植えつけられた矮小な価値観で世界を計っていた、そのことを深く反省しなければならない。(もちろん、自分も含めてだ。)その世界観はこれほどの巨大な力の前では、まったく何の意味もなければ、何の価値を見出すことができない。「世界」は自分にはコントロールが出来ない、こう畏れ、何があろうと受け入れた上で、自分の存在を問うことができる。これはほとんど宗教の話である。そして、これまで信仰を「金・色・欲」に置き換えて、数値化したり合理化を計ってきたボクらは、これからどのように「世界」と向き合っていけば良いのか。

 「世界」を敬い、畏れる。そしてその「世界」の中で自分がどう存在していけるのか、という問いかけに多大な犠牲を払って、ボクらはようやく立ち戻ることが出来たのかも知れない。これはただの「事故」ではなく、ただの「天災」でもない、歴史的なターニングポイントであろう。日本がこの後適切に「進むべき道」へと舵を切れるのだろうか。後世の日本の人々が「あの時こっちに進んでくれて本当に良かった。」と思えるような選択をしなければならない。「世界」はボクらを、もはや、甘やかし続けてはくれない。すべて誰か任せのくせに、ブーブーと我が儘を言っていられた子供時代はピッシリと終わった。今こそは真剣に目の前にあることに「自らが」取り組まなければならない時である。

 ステージで演奏の最中、もっとも速く床にかがみこむにはどうしたら良いか。それは膝の力を抜き、自分の体重を重力に任せて「落とす」ことである。そこで自分が出来ることは「どう落ちるか」の初期設定と、落ちたあとのダメージを最小限にし、次へのアクションへ繋ぐ為にどのように終了させるかという着地体勢の取り方だけである。いくら自分の「力」でもって動こうとしても、これ以上のスピードと滑らかさは得れない。こういうこと一つ々々が、物を考える時に示唆してくれる。それを自覚してやらなければならない。
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by dn_nd | 2011-04-08 10:06

「まぁどうにか」はならない。
 帰国した。L.A.での3daysの二日目のステージで、どうも首を痛めたらしく、帰りの飛行機でもつらかった。しかし帰ってきて小康状態だったので、このまま治るかなと思っていたのだけれど、昨晩からまた痛みがひどくなってきた。どうも潜伏している疲れが表面へ、汚れた池の中のガスのように浮かび上がってきているようである。

 それにしても、帰ってきてからのこの違和感はどうであろう。ボク自身の実感と予想に反して、あまりに人々は変わらなすぎのように見える。国のやっていることはまるで出鱈目で、この震災および原発事故を「ただの事故」としか捉えていないかのようだ。ここが日本という国のエッジぎりぎりのポイントで、ここから日本という国がどのように舵を切って、受けた傷を理想に向かって昇華することが出来るかどうか、それを世界に示すことが出来れば、日本は世界から賞賛を持ってその回復に手を差し伸べてもらえるであろうと期待していた。ところが、汚染水は勝手に海に流すは、人々は特に強烈な危機感を持たず「まぁ、いずれどうにかなるでしょ」という態度をとっている。遠く離れたドイツでは50万人もの反原発デモがあり、フランスで調査の8割が原発抑制へとの報があるにもかかわらず、我々は未だに「これはお上が決めること」として、文句は言いつつも何も出来ないでいる体たらくである。更に来る都知事戦に於いては、原発推進派かつトンデモナイ数々の問題発言(=問題思想も持ち主)石原慎太郎候補が7割の支持を集めているという現実、そこから予想されるころからの現実の推移は、せっかく上がった世界に対する日本人の評価を完全に地に貶めてしまうであろう。そして、そこから日本は回復していけるのであろうか?真剣にこれはシリアスな事態ではないか。

 帰ってきて、ウチを見ていてくれていた近所のおばさんと話す。地震があった時、その後の停電などを含む非常事態について「あんなの大したことないのよー、なんたって私たちは戦争を体験しているんだから。買占めしようとかする人いるけど、そんなことしなくて大丈夫よって言っているのよー。ちょっとくらい食べるものがなくたって大丈夫なんだから。騒ぐことなんてないのよ、全然。」と言っていた。ボクらの親の世代は戦争という非常事態を経験して、そこから何かを学んでいる。彼ら彼女らは根本的なタフさと、他者に対する思いやりを持っているように見える。それこそが世界が評価した日本人の姿であろう。しかしいずれその世代もいなくなり、過保護に育ってしまった甘ったれた日本人だけが世界に取り残されてしまうのではないか。今ボクらは学び、くじけず理想へとヴィジョンを持ち向かわなければ、国はまったく違ったものになってしまわないか。ボクは自問自答を繰り返している。

 
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by dn_nd | 2011-04-07 09:07
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