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ROCKの神話の時代の末端。
 こと"ROCK"という音楽のジャンルに関して言えば、今現在ですらボクらは神話的な時代にいると言えると思う。同じ時代に生きているとその凄さ・有難さは見えづらくなるのかも知れないけれど、まだキース・リチャーズやポール・マッカートニー、ブライアン・ウィルソン、はたまたリトル・リチャード、チャック・ベリーも生きていて、肉声が聞けるのだから。例えばクラシック音楽界のバッハやベートーヴェンやモーツァルトの、文学界に於いてゲーテやドストエフスキーやディッケンズや夏目漱石などの巨人達の、絵画界に於いてゴッホやレンブラントやダヴィンチの建築界の・・・・・etc,etc,のようにその分野での偉業を成し遂げた人々が未だこの世に実存していて、同じ空気を呼吸しているなんて考えるだけですごいことだなぁと思う。しかしこの幸せな時期もほどなく終わりがやって来る。今後5年から10年の間に"偉人"達はどんどん逝ってしまうだろう。だからこそ、今出来るだけ研究を進め、逝ってしまってから「あぁ、あれも聞いておけば良かった!」などと言う事のないようにしなければならないと思う。(なにしろ生きている間は「この先」というものが有限であることを知りながらも、終わりを考えることはしないものである。)

 一方で、"ROCK"というのは同時代的で新しく若いものである必要があると考えられている部分もあり(一方で真実では、あるのだが)、場合によっては「良さ」よりも「新しさ」の方を高い価値と考えられたりする。だからこそ、現在クラシックロックなどと呼ばれる60年代~70年代のロックは若者にとっては「古い」というレッテルだけで聴かれようとしないようである。Amazon.jpの「そういう」ロック音楽のレビューを覗くと、決まって「青春時代に聴いた懐かしい」とか「この良さを今の若者に知って貰いたい/分からないだろう」というようなことが書かれている。確かに今の若いバンドマンにそのようなオールドスクールなロック音楽に精通している人間は少ないように思える。(ミスチルが好きでロックバンド始めたというのもいて、唖然とさせられた事もある。ボクはそういう人間と、どんな音楽的共通項を持ち得るのだろうか。)

 しかしこれは日本の話であって、アメリカなんかでは「クラシックロック」とは言え、誰もが知っているものである。バンドのセットチェンジの間にDavid Bowieのサフラジェット・シティがかかっていて、サビの部分でお客の合唱が始まったことがあるし、「オレたちはなんだかんだ言って、みんな二ール・ヤングの子供みたいなもんだ。」とMCするバンドがいる。ボクらの新曲を評して「ちょっとBig Starを彷彿させるわね。」なんて言われたこともある。(なんとMemphisでだ!)そこにはマニアックな懐古趣味でない自然なリスペクトを感じる。彼らがどのような「新しいこと」をやるのであれ、先達のやってきたことをナチュラルに吸収してきた上でチャレンジしたり構築したり、更新したりするのが分かる。

 その人の「音楽」は、あくまでその人の音楽の蓄積から立ち上がるものだ。人はこんこんと湧きあがる才能の泉を内に持っている訳ではない。誰もがそれまでのリスナー体験をベースにして音楽を紡いでいくのである。その体験が良質なもので、紡ぎ手自身の別の体験から形成される「人間自身」から来る「濾過・蒸留」という作業を通して音楽は作られていく。もちろん、良いウィスキーの味を知らない人間に美味しいウィスキーは作れない。また、ウィスキーの味を知るにはウィスキーとは別の感動・知見がなければならないのも、言うまでもない。音楽もまた同じことである。

 老舗の味を考えると良く分かるが、「現状維持」するだけですら、ものすごく大変なことである。神話の末端に生きつつも、怠惰なボクらは「新しいこと」「刺激的なこと」ばかりに目が行ってしまい、その本質的な良さ、つまり「何故"ROCK"はこの時代に人々の心に揺さぶりをかけ、世界を変えることが出来たのか」という歴史から学ぶのを忘れてしまっているのかもしれない。そうなってしまうと、音楽もただの消費されるものに成り果ててしまうように思う。今現在そうなってしまっている、とも言えよう。("経済"と言うファクターは、常に現状のリターンのみを評価させ、人の内面をサポートしない。とてもやっかいなものである。)

 ボク自身もそうだったが、「自分の音楽」を作り始めるのが早すぎた、という悔いがある。もっと自分の人間や音楽体験を熟成してから始めても良かった。しかし後悔先に立たずで、自転車操業に近くなるが、なるべく学習・熟成をやりながらお店をオープンにしておくしかない。その間に色々と変化がある(あった)。過去の失敗は、それとして受け止め、とにかく「今ここ」からより良い現状を模索するしかなさそうである。

 "ROCK"もこのあとまた聴き続けられることであろう。2063年に"The Beatles、100周年"なんて言うイヴェントが来る時、人々はその時代をどう思うだろうか。2163年には?とにかくボクらには出来るだけ良質であることを、自らに課すしかない。歴史はそういう自覚を則すのである。
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by dn_nd | 2011-05-25 09:56

ドイツ雑感。
 引き続きドイツの話、と思ったけれど、一日たってみるとそのような気分ではないらしい。とりあえず、特にドイツに興味も知識も持っていた訳ではなく、これほどの偉大な文化を持ちながら、第2次世界大戦での敗戦の結果、自国の過去・歴史を全否定せねばならなくなってしまった国としての共通点があるかもしれないなぁ、とぼんやり考えていたのである。そして、興味があるのは今現在のドイツの若者が、どのような状態にあるのか、日本のフニャフニャとした若者との共通点・違いがあるのか、それはどこから派生したものなのか、という点である。いかんせんドイツに行ったこともなけれれば友人もいないので、これについても来るヨーロッパツアー(来年か)まで持ち越しの研究課題となろう。確かに経済的豊かさという点においても共通する部分があるが、入力する情報は同じでも、それを処理するBOXが(つまり国民性や風俗や国自体のシチュエーション)かなり違うので、同じ年月を経た結果がどのような差異となって現れているのか。かなり興味深いものである。パンもビールも美味しいらしいというのも、気になる点であります。

 考えてみると、「パンやビールも美味しい」という点を取っても、両国の結果の違いが出ているように思う。(「違い」であって優越ではないですよ)今日本に「これは美味しいですよ」と他国の人に自慢できるものは何だろう、と考える。ドイツのパンやビールは大戦前からずっと美味しかったに違いない。さて、我々は?ぼんやりした早起き頭を回転させても何も思い浮かばない。牛丼、などとジャンクなものが思い浮かぶが、牛丼を牛丼屋でかきこむ姿は、海外に向けて自慢できるような、「オゥ、ジャパンノギュウドン タベテミタイデスネー」などという気持ちを思わせるようなものでは、断じてない。(時々食べると美味しいのだけど)大戦により文化が分断されてしまったとは言え、両国とも世界から「食文化まで変えろ」と言われた訳ではないだろう。

 変えてしまったのは、すべてそのBOX内での自己選択によるものである。その差異の上に時間・歴史はどんどん積み重なっていく。後ろに戻ったり、リセットすることは出来ない。正解であれ間違いであれ、それを含んだ上で「今」を進行させていかなければならない、と考えると、ただ「昔は良かった」とか「昔に戻った方が良い」などという考えがどうにもならないものだと分かる。その誤差を含んだ上で「こうなれば良いかも」という「架空の良い未来の雰囲気」へ邁進するしかない。それはハッキリとしたヴィジョンとは言えないかもしれない。どちらかといえば皮膚感覚に近いものだ。雲を掴むような話なのだけれど、ボクはステージで同じようなことをやっているので、分かる。違いは、日本という国にはもっと沢山の違う考え方をする構成員がいて、もっと偉大で長い歴史を抱えているというところだ。(むむ、全然違うかも知れない・・・・)

 現在のドイツの音楽好きの若者は、バッハなど自国の音楽英雄達をどう捉えているのだろう。今となってはクラシック音楽を「所詮ヨーロッパの1民族音楽の一つに過ぎない」と卑下する人もいないではないけれど、そのような支配・被支配という関係から浮かぶ政治的感情論や上流階級否定論を抜いて耳を傾けると、やはりクラシック音楽には民族を超えた懐の大きな美しさ、感動を感じずにはいられない。そのようなものが民衆に大事にされるご時世ではないのかもしれないが、それはドイツでどのように継承されているのだろう、と思うのであります。(結局ドイツ話になってしまいましたなぁ。)
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by dn_nd | 2011-05-22 06:15

オペラの嗜み・・・から脱線。
 たまたま、ここのところドイツに接触している。とは言っても、ワーグナーのオペラを聴き、フルトヴェングラーの評論集を読んでいるくらいである。「オペラを聴く」と言うのは、他の音楽リスニング作法(?)とは大きく違うものだ。ガーシュウィンの"ポーギーとべス"のように英語で歌われ、Jazz的なリズムが加えられているものならまだしも(あれはオペラとは言わないのかも知れない)、ドイツ語でドバーッと延々に続けられるワーグナーのオペラはヘッドフォンを耳に押さえつけるようにして解説書を頼りに聴き続けなければ、BGMとも言えないただの通り過ぎる音楽のようになってしまう。そもそもクラシックを聴くにも、3分間のポップスに耳を馴らしてしまったボクなどには、まったく違う時間感覚を養う必要があった。勿論、クラシックを音響音楽としても聴くことが出来るし、リズムに激しくノって、それまでの"ポップス耳/感"で聴きとおすことも出来るのだけど、クラシック音楽の内包するスケールや時間感覚は、もっと別なものであろう。歌詞もなく、場合によっては題名すらない4楽章50分を超える交響曲に、どうシンクロしていくのか。そんな悠長な時間などないという人もあろうが、ボクの場合はどちらかと言えば、その長時間、フックのない(いや、本当はあるのですが)音楽に集中し続ける力がなかったのだ。しかし、トライしてみるもので、ここのところは随分楽しんで聴けるようになってきたようである。(まだ薀蓄を傾けれるようなレベルではないですが)

 オペラは、しかし、交響曲よりも更に上の集中力が必要とされる。なにしろ全3幕、CDにして4枚組みである。(ところがこのワーグナーは4部作のオペラの内の1作に過ぎないことが解説で判明した)さすがに1日で全部を聴きとおすことが出来ず、5日間ほどかかって漸く聴き終えることが出来た。意外にもとても面白いものだった。オペラというものはTVも映画もない当時の人々にとっての大きな娯楽だったに違いないが、これを素朴に楽しめていた時代の人間というものに、憧憬を感じない訳にはいかない。ボクらは想像力でその埋め合わせをするしかないのだけれど、その頃の人間と現代の人間の感覚の違いはどういったものか。しかし、それはたかだか100年程前にしか過ぎなくて、その間に起こった「発展」がどれだけボクらに快適さと生き良さをもたらし、一方で不安や孤独をもたらしたのか。

 世界は最早ここから更に「増えていくことで発展」する展望は持てないであろう。ボクらはピークを過ぎた人類がこの先どう「より良いスケールダウン」を達成出来るかという、人類史上初めての場面に遭遇している。階級に関係なく殆どの人間が「歴史というものが存在する」という認識を持っていながらそれに挑むという意味でも初めてのことだろう。我々は「今」歴史が作られつつあるのを知りながら歴史という時間を過ごしている。そして、ボクらが何かから学ぶことが出来るとすれば、やはりそれは歴史からでしかないであろう。大きな時間の流れというものの認識が必要なのだと思う。

 ・・・・・と、書いたところで、また大きく脱線してしまっていることに気付きました。なんでこうなるのか。(ドイツとはまったく関係がない)続きはまた明日にしますです。
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by dn_nd | 2011-05-21 06:14

雑感#05192011
 この1ヶ月の内に物忘れが結構多くなり、家の鍵を忘れることが2回、電車の切符を失くす、ライブなのにコンタクトレンズを用意していない、演奏中にピックをよく落とす等々。年のせいではないと思う(思いたい)。基本的にボクは注意深い人間でもある。おそらく原発・放射能というヘヴィなバグが頭の中に入り込んでいるので、それまで自動操縦的にこなしていた行動の一つ一つの所作と認識の間に微細な誤差が生じているのだと思う。いやはや気を付けなければ、そのうちライブで怪我をするという格好悪い事態に繋がらないとも限らない。または財布を失くしたり、とか。

 更に、毎日ストーリーのある長い夢を見る。ピットくんが面白いというのでチョコチョコとtwitterに書き込んでいるのだが、余りに頻繁でハッキリしているので、ちょっと怖いような気もする。夢判断というものがどういうものか良く知らないけれど、診る人が診れば何事かが意識内で、または無意識下で起こっているかが分かるのだろう。(もちろん、全てを書いている訳ではないです。大人っぽいシーンもありますからね!)一方で寝る前には映画でも見る感覚で「今晩はどんな夢を見るのかなぁ」などと考えていたりもする。これもいつまで続くのか。いずれにしても、夢を見続けているので、しっかり睡眠をとった気がしないのが難点ではある。

 コンピューターならばフリーズしたりクラッシュしたりするが、意識内にバグが入った場合は、壊れることなく別の成長作用を促すようである。人間のシステムは実に優れているなぁ、と思いつつ、これがどのような変化をもたらすのか、我がことながら興味深く観察しているのである。

 
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by dn_nd | 2011-05-19 06:01

増大するエコーの中で。
 実にこのところずっと頭を悩ませているのである。どうも3・11以降、というよりも、ボクにしてみればアメリカから帰国して以降、自分の意見や思いつきを勢いのまま発言したり書いたりということが、個人的な認め合った関係同士ならばともかく、このようなパブリックの場ではやりづらくなってしまった。良く言われているように「そういう空気でないから」というものでもなく、それは、ひたすら個人的な理由から来るもので、何を表明するのしても、それが軽はずみなものでないか、他人に理解してもらえるのかどうかが気になってしまうようになってしまった。思考しては、ああでもないこうでないと行ったり来たりしているのである。前に書いたように、これはとても悪い状態である。思考をアウトプットしないまま、脳内でグルグルとひたすら回し続けると、余計なエコーが生じてしまう。エコーはエコーを呼び、そのネガティブさは(グルグル回るようなものは大抵ネガティブなものである。ねぇ?)贅肉をまといながら、「気」を蝕んでいくのだ。(「蝕む」ってもう視覚的にキますね。虫・食べるだもの。何とも不気味な蟲にムシャムシャやられる・・・・・・わー、怖うぃ・・・・・)

 それにしてもにっちもさっちも行かないものである。アメリカをツアーしている頃に、事故のかなり初期の段階で指摘されていた事実(レベル7やメルトダウンなど)が最近になって「後だし」され、すでに今となっては(ボクもそうだけれど)パニックにならなくなってしまっている。しかし考えてみると、その危険性はまったく同様なのであって、ただニュースに耐性が出来ただけで、放射能に耐性が出来た訳ではない。しかも、そのようなニュースは、発生当時に日本に流すと「そんなことある訳がない」みたいに、散々言われたものである。(Twitterも怖うぃ)そのような「パブリック」の中で、ボクは「変わって欲しいと思うが、変われそうにない日本人」に、またその一人として、何を伝え表現していけば良いのか、未だに大きな迷いがあるのだ。

 浅田次郎の中国・清末期の時代を描いた小説に、その長く偉大な歴史のせいで簡単には変われない中国人の姿が描かれている。人間というのは個人を越えた国民性という過去の積み重ねの上に成り立っている。高度成長以後、ドンドン変わっていったように見える日本人も同様であろう。おそらく変わったというのではなく、すでに持ち合わせていた資質の一部が増大したり縮小したりしただけなのだろうと思う。今回の震災は明治維新・太平洋戦争敗戦に続く「変化」があるのでは、あって欲しいという気持ちがあったのだけれど、そう簡単にはいかないようである。おそらくそれは黒船や敗戦という圧倒的な「他者」からの変化の強要ではなく、自らの内部的資質を自からの自覚の下でやらなければならないところにあるのだろう。そして日本は長く偉大な歴史を持っている。アメリカ人のように合理的にやっていくことが出来ないのである。ヨーロッパ人のように論理的に事を進めていくことが出来ないのである。そしてその資質は、歴史は、ボクらの中にどっしりと腰を据えているのがはっきり分かる。それは切っても切れないものだし、悪いものと考えて切り捨ててしまうと、同じように善き部分も損なわれてしまうのであろう。とてもとても複雑である。

 この問題に関して、ボク自身の考察も進んではいない。「これが分かってきた」、「こういう風にやっていけば良いのではないか」という発想も、その長大な歴史・文化の前では、軽い。それを思うと簡単にアウトプットが出来なくなってしまうし、エコーは増大していくばかりである。いや、まいった、というのが、今のところ書けるすべてであります。(それでも書いていこうかなと思い始めています。どぞよろしくです!)
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by dn_nd | 2011-05-17 06:15
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