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ズボンズのリーダー,ドン・マツオの思考あれこれ。
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幼年期の終わり。
 首が相変わらず痛むのだが、考えてみれば結局自分の動作の洗練されなさ・至らなさからくるものである。激しくリズムに乗るという運動が、洗練された滑らかなものでありさえすれば、このように身体を痛めないものである。当日はステージが狭く、ちょっとでも動くとギターをどこかにぶつけそうだったからカヴァーする為に制限をつけながら動いていて、というのは言い訳に過ぎない。ただ激しく動いてそれで身体を痛めるというのであれば、それは「ただのその辺の人」である。誰にだってできる。ボクの目指すところは、準備運動なしでもその活動に瞬時に入っていくことが出来、最高のパフォーマンスをしたうえで、身体に損傷を与えないというものである。これは今まで頭をよぎっていたアスリート的なスポーツ選手の在り様とは違い、もっと精神性を伴った武道的なものに近いのかも知れない。自らの「力」でもって動きを制したり、パフォーマンスを上げることではない。「力」を「借り」、そこにうまく溶け込むことである。

 帰国してから0311以降の自分/日本という問題が日に日に大きくなっている。もはやボクらは0311以前には戻れないのだなぁ、と思う。ここを境に今まで良しとされていたり、容認されていたりした価値観や思想はすべて見直しを図らなければならないように思う。日本の高度成長期以降に幅を効かしていた物質崇拝・経済崇拝・合理性崇拝が結果としてどのような世界へとボクらを導いていったのか。「楽しければ良いのだ」「自分さえ良ければ良いのだ」という言い草が、これからもこの国で通るのだとしたら、そこはボク自身がいるべき世界ではないのだとすら感じる。自分のやっていること、存在そのものに厳しい問いかけが必要であろう。

 これまでボクらには、「世界」は自分でコントロール出来る/出来ているとの傲慢な思い込みがあったのではないか。しょせん世の中なんて金や色や欲で成り立ってんだよー、と強がっていたのではないか。そのようなTVや雑誌や「世論」から植えつけられた矮小な価値観で世界を計っていた、そのことを深く反省しなければならない。(もちろん、自分も含めてだ。)その世界観はこれほどの巨大な力の前では、まったく何の意味もなければ、何の価値を見出すことができない。「世界」は自分にはコントロールが出来ない、こう畏れ、何があろうと受け入れた上で、自分の存在を問うことができる。これはほとんど宗教の話である。そして、これまで信仰を「金・色・欲」に置き換えて、数値化したり合理化を計ってきたボクらは、これからどのように「世界」と向き合っていけば良いのか。

 「世界」を敬い、畏れる。そしてその「世界」の中で自分がどう存在していけるのか、という問いかけに多大な犠牲を払って、ボクらはようやく立ち戻ることが出来たのかも知れない。これはただの「事故」ではなく、ただの「天災」でもない、歴史的なターニングポイントであろう。日本がこの後適切に「進むべき道」へと舵を切れるのだろうか。後世の日本の人々が「あの時こっちに進んでくれて本当に良かった。」と思えるような選択をしなければならない。「世界」はボクらを、もはや、甘やかし続けてはくれない。すべて誰か任せのくせに、ブーブーと我が儘を言っていられた子供時代はピッシリと終わった。今こそは真剣に目の前にあることに「自らが」取り組まなければならない時である。

 ステージで演奏の最中、もっとも速く床にかがみこむにはどうしたら良いか。それは膝の力を抜き、自分の体重を重力に任せて「落とす」ことである。そこで自分が出来ることは「どう落ちるか」の初期設定と、落ちたあとのダメージを最小限にし、次へのアクションへ繋ぐ為にどのように終了させるかという着地体勢の取り方だけである。いくら自分の「力」でもって動こうとしても、これ以上のスピードと滑らかさは得れない。こういうこと一つ々々が、物を考える時に示唆してくれる。それを自覚してやらなければならない。
by dn_nd | 2011-04-08 10:06
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