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ズボンズのリーダー,ドン・マツオの思考あれこれ。
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車検に行きました。
 車検の為、さいたま市(いつまでたってもこの平仮名に馴染まないな)にある修理工場まで車を走らせた。ボクの車は70年代末のホンダの車で(「旧車」と呼ばれる)、その修理点検がしっかり出来るのがそこにしかないのである。むしろ現在のホンダのディーラーに持って行っても「古すぎてウチでは面倒見れません。」とすげなく断られてしまう。それもどうかと情けない思いもするけれど、世の中は常に「便利で安価」な方向に進み、結果良い部分が失われていくものである)もう6年来お世話になっていることになる。お陰で、30年以上前の車だが、何のトラブルもなくブイブイ走っていられる。

 社長はその昔ホンダの工場に勤めていた職人で、退職後に自身の修理工場を始めた。(関係ないことではあるが、社長の風貌はどことなく死んだボクの父と似ている。だから、何と言うか、無条件に好感を持ってしまうのである)今ではその需要の多さに旧車専門にしたという。会社名も「埼光オート」から「ガレージ・サイコー」に変わった。(ボク個人としては前の名前の方が好きではあるが)旧車専門にしてから仕事はかなり増えたという。昨今、どことも同じく不景気な話しかないに違いない零細自動車修理工場にあって、今どんどん忙しくなっていっているというのは驚異的でもありつつ、他に出来ない事を引き受けることが出来る社長の能力によるものである。それほど街を走っている姿を見ることのない旧車であるが、未だに大事に自分の車庫にしまっている人も多いらしく、その修理が出来るのがここしか無いという訳であろう。今でも月に新規のお客が一人二人と増えているらしい。「休む暇がなくてねぇ~。」と社長はボヤいていたけれど。

 ホンダという会社は、旧車界でもとりわけ扱いづらい種類らしい。と言うのも、60年代から80年代にかけて、未だ「若い」自動車会社だったホンダは、他のどの自動車とも違うアプローチで車作りに臨んでいたからである。F1と云うレースに出場し、そこから得た結果をエンジンや躯体に常にフィードバックする為に、新車やモデルチェンジがあると、それは以前のものとはまるで違うアプローチの内容である為に、またイチから勉強し直さなければならないようなものだったと言う。普通の会社ならば、互換性や汎用性を重視し、より「便利で安価」な方向に進むので、前の車をベースに改良程度で済ませてしまうのだが、ホンダの場合はゼロベースで改革してしまう。「とにかく今出来る最善の車を創る」というのが、その本旨なのであろう。(そういう意味でその姿勢はコンピューター業界のappleの存在と良く似ている。)なので、ただでさえ扱いにくい、しかも旧車を扱えるということは、他に代替のきかないものなのだ。

 ガレージ・サイコーは、社長以外は結構若い職人ばかりである。社長に「若い人達にも社長の技術を伝えているの?」と尋ねると、「いやぁ~。」と苦笑いする。旧車の修理の大変さというのは、とにかく同じ部品が現在製造されていないというところである。そこに不具合があると分かっても、簡単に部品を取り寄せて交換することが出来ない。なので社長はその長年の知識やネットワークを使って、「ここにはこの代用品が使えるかも知れない」とか「これならば一度取り出して分解して直せば大丈夫」などと、脳のデーターファイルを活用することになる。「若いのに修理のやり方なんかを教えるのは出来るんだけどさ、これとこれが代用出来るとかさ、これ前にバラした車のストックでなんとなく取っておいたのが倉庫にあるな、とか、そんなことは教えようたって、教えられないよ。勘でやってる部分もあるしね~。」という。確かに社長の脳のデーターファイルは長年の経験の集積で、それは修理マニュアルの何万倍ものデータであるに違いない。勘を働かせて、とはいってもそれは、分厚い経験を更に細かく分類してネットワークで繋げる努力をしてきた人間だけが身につけることが出来るものである。社長のデータをこっちにインストールして、という訳にもいかない。なので、残念だけれど、ガレージ・サイコーの旧車修理のノウハウの根底は引き継がれることは無いだろうと思う。これはおそらく多くの優秀な高齢の職人の技術に頼った製造産業に言えることなのだろうと思う。

 さて、そのホンダ車の現在はどうかと云うと、もはや他のどの自動車とも変わらないそうである。今は故障箇所発見用コンピューターを使って、ピピッと検索し、そこで出た結果の悪い部分をユニットごと取り替えるという作業であるらしい。しかし、これだけドッグイヤー的にどんどん進歩していっているコンピューター業界なのに、その故障箇所発見コンピューターだってすぐに古くなってしまうに違いない。となると、「あなたの車はもう古いので、このコンピューターではどこが悪いかすら分かりません」と言われてしまうのではないか知ら、と思ってしまう。いやはや。万事は「便利で安価」という方向に進む。しかしそこで職人や長く続けることで醸し出す深みのようなものをバッサリ切り捨ててしまっては、ほとんど人間の歴史の否定と同じことである。やはり人間と云うのは良い部分とか肝心な部分という固くてまっすぐな棒のようなものだけ残せば良いという訳ではないだろう。そこに沢山絡み付いている「味わい」や「深み」が伴ってこその豊かさなのである。
by dn_nd | 2011-09-15 06:28
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