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ズボンズのリーダー,ドン・マツオの思考あれこれ。
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「ズボンズ」という実験の顛末。
 6月にズボンズとしてライブをやってから、もう2ヶ月以上過ぎてしまった。その間ボクは例外的なソロライブを除いて、ギターをケースから取り出すこともなかったし、人ともあまり会わずにいた。ひたすらハードボイルド小説を読み、筋肉トレーニングしたり、毎日走ったりしながら日々が過ぎるのに身を任せていたのである。それでも、もちろん、「これからズボンズをどうしていくのか」ひいては「自分はこの音楽をやり続けていきたいのか、どうか」という問いかけが、延々と続くやっかいな地下工事の持続低音のように一日中鳴り止むことはなかった。時間が無為に過ぎていくことへの焦りもあり、ハッキリした答えが出せない自分への苛立ちもあるのだが、ハードボイルドの世界とトレーニングによる身体への負荷によって逃げ場を作り、答えを先送りにしていたのだ。しかし、いずれにしてもいつかは立ち上がらなければならない。今までも越えてきたことである。そして、どうにかプランを考え付いた時に次の災難がやって来た。

 ムーストップが辞めた以上、それまでと同様の完成度を求めるのも難しいだろうけれど、きっとやり方次第でバンドの音楽には別の伸びシロがあるとボクは分かっていたので、とりあえずという形ではあれ新しいベースプレイヤーを見つけ、更に新しいメンバーをもう一人加えることで、これからまた新しいズボンズを創り上げるのだと決心を固めていた。ともかくも、走り始めるのだ。何人かの人に相談し、会ったりしてどうにかメンバーも揃えた時に今度はPittから「実は音楽を止めることにしたい」という申し入れがあった。「新しいズボンズを創り上げていくのに自分はもう力を出せない」というのである。この時にボクが感じた気持ちは、文章にするべきものではないだろう。それは、固定化してしまうにはあまりに強い憤り、不信、、喪失、悲しみの混合であった。しかし一方では、ただの通り過ぎていくエモーションであって、その感情に巻き込まれることは現状改善とは無関係なのを知っているからだ。(未来は、その後の本人の行動と状況の導きで良くも悪くもなれるのをボクは理解している)とは言え、あまりの失望感であったので、再度地下工事の重低音に悩まされることになる。

 ムーストップと飲みにも行った。しばらく期間をおいたところでの彼の気持ちを知りたかったし、わずかに復帰に期待する気持ちもあったのだが、1ヶ月以上ぶりに会う彼はボクの期待とは少しく違う変化をしてしまっているようで、どことなく再度音楽を共有することが出来ないように見えた。ローリング・ストーンズの話ですら(以前のようには)盛り上がらないなと感じた。彼は今の仕事について話をする。ボクは彼の今の仕事などクソ喰らえと思うが、言わない。(言ったかも)地下工事は終わりそうになく、更にオクターブ下の低音を増しただけであった。

 さて、何がこの巨大な失望感を、ボクにもたらすのだろうか、と考えていた。自分が傷つけられたと感じる、その根っ子にあるのものは。利益や損失、プライド、正義、様々な理由もそこにはある。しかし、一番ボクをがっかりさせるのは、それらよりも、自分の信じてきたことを全て否定されているように感じるところにあるのだと思う。

 バンドは生き物である、とボクはいつも書く。それは比喩でもなんでもなく、実際にそう思っている。それは育っていくものである。たくさんの人がズボンズはドン・マツオのワンマンバンドだと思っている。しかし、創作であれ活動の方向であれ、集合体である以上はそのメンバーの意志抜きに進行していくことは一つもない。あえて逐一直接話し合うことはしないが、何を判断するにしても、ボクはメンバーに架空の問いかけを行い、彼らの好みや技量の許す範囲内で決定していくのが常であった。「彼らはこれをやることに賛成するだろうか?」「彼らはこれが出来るだろうか?」what if、what if.......、そして自分は、と。その積み重ねの上に「ズボンズ」という生き物が出来上がってきたのである。彼は自身の考えや好みを持つし、得意・不得意もある。そのパーソナリティを分かってこそ、ステージで良い音楽を発生させることが出来るようになるし、ある程度はコントロールも出来る。そして、ある場合に彼はボクらをとても高いポイントに連れていってもくれる。音楽的にも、シチュエーション的にも。ボクらの誰もが今のように海外での活動をごくナチュラルにやるとは思ってもいなかったし、また、このような人間に成長/非成長していくとも思っていなかった。ボクらがバンドに命を与え、その内に今度はボクらがバンドから生きていく上での影響を受けていくことになる。ボクらは避け難く、バンドの一部であり、それは取替えが効くものではなくなっていく。ちょうど、自分の両手両足が(簡単には)取替えが効かないのと同じように。

 自分は不恰好な手足しか持っていないかもしれない。顔だって気に入らない部分があるし、性格的にもいささか問題があると思う。(もしかしたら胃腸も弱いかもしれない)しかし、あくまで自分の手持ちのものはそれしかないのである。何かやりたいことを果たすには、それを出来る限り有効に使うことしか道はない。何かを「やりたい」と強く思う。ならば、どうにかやろう、ということで、右手は右手の出来る限りのことをやり、或いは左足がそれをサポートし、或いは発想を転換したり無邪気なやる気を発生させてみたりして、たとえそれが不恰好な動きになっていたとしても、とにかくやり遂げようとするのである。ボクらはそうしてきた。なかなかに大変な道程でもあったし、将来の光も華々しく輝いている訳ではなかったけれども、自分達が行ってきたことを良いことだとも思い、その過程で産み出されきた曲群も(小声で、いや大声で)とても良いものじゃないかと満足もしている(若干小声になるようなものも、あるかもしれない)。何よりも、それをやり続けてきたことが、他の何者ともまるで違う自分自身そのものを形成してきたのであって、誰が何と思おうが、これは真実だし、これで良いのだ、と、ボクは考える「生き物」の一部として、信じてきた。大いなる誇りを持ちつつ。

 そうして、同じ「生き物」の一部としてのメンバーも同じように感じているだろうと、無邪気に信じていたのだ。ボクは夢の中で生きていたのかもしれない。そうして、現実に「やっぱ所詮世の中こういうものでしょう」とシレっと起こされたような気分になっているのだ。これがボクの失望の根本である。敗北感かもしれない。そうして今、長いこと取り組んでいた「ズボンズ」という実験への意欲を喪失してしまった。

 9月22日を最後のライブにする、と発表すると「それは解散という意味なのか?」と問う人が大勢いる。でもボクは上に書いてきたように感じているという理由から、「バンド解散」という物言いが、どうもしっくりこないので、そう書けない。ここでは、ライブ(生命活動)を終える、としか言えない。ズボンズという生き物が。解散、とは、あくまでメンバー自身が散り散りになることを決めて活動を終わらせるという印象だが、ズボンズにとってのメンバーはそれほど主体ではない。生き物は決して散り散りにはならない。それは、ただ息を引き取るのではないか。

 ともかく、自分の感じていることをなるべく正直に書こうとして、ずいぶん長い文章になってしまった。当日にどのような演奏が出来るか、今は想像もつかない。華やかにハッピーに終わらせたいとも思わないし、悲壮感漂うシリアスなものもゴメンだな、と思う。それでも、これが最後なのだと考えずにやることは出来ないであろう。せめて、見に来てくれる人々には良いものを見せるべく努力しよう、と考えている。ボクらは小さいけれども、大きなことをやってきた。最後にまたこのメンバーでやり終えるのが筋というものである・・・・・いや、そうではない。「筋である」「べきである」、ではなく、ボクはやはりこのメンバーをとても愛しているし、誇りに思うから一緒にやりたいと、本当は思っているのだ。同様に、「ズボンズ」という活動体そのものも。

 一つの生命が終え、新しい生命が一つ生まれる、そのようになれば良いのだがという願いも、持っているのです。さて。
by dn_nd | 2013-08-24 11:36
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